風の話
若い頃に旅行している時の電車の中で、初老の占いさんに「調べてあげるから誕生日と名前を書きなさい」と言われたことがあります。しばらくして「あんたは風のようなもんだから掴みどころがないね」と言われたことがありました。それ以来私は風を自称しています。
風の面白さを知ったのは障がいを持ったお子さんたちと生活し、ケアーしていた時です。私の担当したグループは色々な病名を持った子たちの集まりでした。癲癇もちのセンシブルな子どもたちがいて、新月だと満月には色々と変わったことがありました。それはそれで興味深いことだったのですが、それ以上に私の興味を引いたのは風が意外と大きな役を演じていることでした。
風に向かって手を広げる子ども。
風に笑いかける子ども。
風といっしょに歌い出す子ども。
風の中に入って一緒に踊り出す子ども。
実に色々なことを風が引き起こすのです。
私が病気で倒れて、少しづづ回復してきた頃に森の中を歩いていました。とても気持ちの良い日で、頬を撫でる風が気持ちのいい暖かい春の日でした。下り坂に入り、突然風が変わったと思った瞬間、風が私の体の中を通り過ぎたように感じたのです。回復に向かっているとは言っても、体はまだ疲れやすく、重たく、暗かったのです。体が暗いと言うのはわかりづらいかもしれませんが、体の中が不透明な感じです。病気特有の感じなので健康体には縁のないものです。そんな真っ暗な体の中を風が通り抜けたのです。その瞬間健康ということの意味がわかったような気がしたのです。その日からすぐに奇跡的に健康になったということはありませんが、回復の方向を歩み始めていました。
私が治療オイリュトミーの治療を受けている時にも体の中を風のようなものが通るのを感じました。その瞬間やはり体が明るくなるので、オイリュトミーは風のようなものだと思っています。
風に敏感に反応する子どもたちは、風がなんなのかをよく知っています。きっと彼らの体の中を風が通り過ぎているのです。風の精に通じているのかもしれません。風に向かっている彼らは一様に良い顔をしているのです。とても幸せそうな顔をしているのです。風の神様と話が通じるのかもしれません。
沖縄に台風が近づくと、わざわざ海辺に出かけてゆく人が必ずいて、毎年何人かが風か波に呑まれて死んでしまうのだそうです。そのことを話してくれた人は「正直自分もやりたいから、気持ちはよくわかる」と言って普通のことのように話してくれました。
台風が来ると台風の目に向かって車を走らせる友人がいました。バードウォッチャーで、台風の目の中に巻き込まれて出てゆけなくなった南国の珍しい鳥がいるのだそうで、それをわざわざみにゆくのです。彼女も当たり前のような顔で淡々と話してくれました
風に魅せられた人たちは「き」の字がつくような人たちです。
風という字は「テ」と読みます。疾風は「ハヤテ」と読みます。また「ち」ともよみ、東風は「こち」で東から吹いてくる風のことです。私が日本中を講演していたときに、鹿児島県と高知県と岩手県がとても印象的で、特別な県だと思っていました。特に岩手は、岩に吹く風が印象的で、岩手はもしかしたら岩風がそもそもではなかったのかと思ったことがありました。少しこじつけがましいですが、宮沢賢治が「風の又三郎」を書いたのは、岩手の風のことを書きたかったのではないのかと勘繰ってしまいます。「どどどっ」と吹く風なんかどこにもないですから。
風の中でもとりわけ美しいのは、桜吹雪です。十日ほどの命の最後に風に舞う桜の花びらは哀しく美しく凛としています。