続世界観とイデオロギー

2021年4月25日

人間の中にはもともと、世界観派とイデオロギー派があるのかもしれません。

世界観は矛盾を受け入れますが、イデオロギーは矛盾したものを排斥します。

ヨーロッパの歴史は、大きな流れで見ると、イデオロギーがぶつかりあった歴史のような気がするのです。イデオロギーによる権力闘争の歴史です。

 

世界の主な宗教(三代宗教)はユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。仏教はその系列からは漏れて、宗教というよりは世界観のような気がします。それゆえに、キリスト教の修道院で、禅の講習会のようなものが頻繁に行われるのでしょう。イスラム的瞑想のようなものはキリスト教の修道院には入り込めないのです。キリスト教とイスラム教がともに根っことしている旧約聖書のユダヤ教では、自分の宗教以外を皆殺しにしろと言って憚らないわけです。これは仏教にはありえない考え方です。

 

日本が西洋を本格的に取り入れた明治以降日本はイデオロギーでものを考えるようになったと言えるのかもしれません。それが近代的だと考えた人たちはそれをどんどん広めてゆきました。イデオロギーで考えない人間は古いと言って排斥していったとも言えます。それはまるで植民地化された地域が母国語を使うことを禁じられたようにです。そしていつしかその言葉は退化してしまいまい、消えてしまうのです。

今の、多くの日本人はイデオロギーで物事を整理しようとします。合理的に整理できて便利なものだとみられているからです。学問、特に思想的な分野にはイデオロギー派が多く、あるイデオロギーが権威的な力を持つと、それ以外の考え方を排斥し始めます。その権威になったイデオロギー以外は居場所がなくなってしまうのです。これが政治権力と結びついた日には目も当てられない社会状況が生じます。

 

イデオロギーで考えるようになると、なんでも説明がついてしまう錯覚に陥ります。人間はだんだん考えなくなってしまいますから、それは思考の退化に他なりません。最近「人間の建設」という岡潔と小林秀雄の対談を読み返していて、二人が別の観点から「今の人間は知力が低下している」と言っているのが印象的でした。特に岡潔が「数学が抽象的になってしまった」「数学から感情が無くなった」と言うくだりは目から鱗でした。

知力というのはさまざまな矛盾の中から鍛えられてゆくものだと考えていますから、矛盾の排除は、結果として知力を低下させてしまいます。

真っ白いキャバすに向かってドキドキしながら絵を描くのではなく、あらかじめ線で描かれたものに色を塗ってゆく、塗り絵的になってしまうと、絵の醍醐味は薄れてしまうものです。出来上がった塗り絵の絵は基本的にはおんなじ絵なのではないのでしょうか。

 

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