慣れなのか直感なのか
直感を磨くには繰り返すことがいいと考えています。何も考えないでもできるようになるまで技を磨くということですが、これは慣れにも通じるものです。慣れたことはあまり考えないでもできます。慣れるまで繰り返すことがいいのでしょうが、そこには危ない落とし穴が待っています。
ということは直感は慣れと同じものなのかということになりますが、私は同じではないと考えています。
ここのところをはっきりさせると面白い世界が見えてきそうです。
ハンツ・ホッターというドイツの歌手のマイスターコースを会場で何度か見ました。いや聞きました。当時すでに八十歳を超えていたのですが、声は未だ衰えておらずみずみずしい透明な声でした。彼は「人前で歌うには少なくとも百回は歌ってからにしなさい」と、くりかえに若い人たちに言っていました。「体に馴染んでいなものは聞くのが辛いものです」ということでした。
最近みている有名レストランのシェフが作るYouTubeの料理の動画で、シェフが作る手慣れた料理は見た目がとても美味しそうに出来上がっています。食べたらきっと美味しいのでしょう。包丁の持ち方、野菜を刻むときのリズム、混ぜるときの手際良さ、何をとっても熟練を感じるものはみんな美しいです。大工さんをはじめ職人さん達の仕事っぷりも同じです。体に染み込んだものが溢れ出ている仕事は見ていて気持ちがいいものです。そして思わず自分でもあのくらいのことならできるかも、なんて思ってしまうほどです。
慣れてしまうとマンネリにならないかと心配するのは素人だからです。プロは初心忘るべからずを知っていますから、繰り返しで技を深めたからといって手を抜くことはなく、やればやるほど、技を磨けば磨くほど難しさがわかってくることを知っているのです。上手になるというのが落とし穴だということもです。
ある料理人が雑誌の編集者から後世に残したい逸品を作って欲しいと依頼されました。それをどのように作るのか食材を探して回っている中で何を作るかが煮詰まり、食材を見ながら何を作るかが決まったら、試作品などは作らず取材の日にぶっつけ本番で作り始めたのです。彼曰く「試作品なんて作ったら本番でいいものができない」。まさに慣れを超えた直感のことをよく知っていたのです。
これは料理を作り続けた人間だけができることです。同じ料理を何度も作り、そこで料理の本質を極めた人だけが言えることです。繰り返し繰り返し作ってきた中で磨かれたものを知っているのです。それは慣れとかマンネリという次元を超えるのです。そしてそこに至って直感の世界から授かれるものがあるのです。
繰り返しても、繰り返しても慣れに陥らないという不思議な世界を体得した人たちがいるのです。
普通の意味で、繰り返すことで私たちは自信を得ます。慣れるということで自分という器を作っているとも言えます。しかし最後はその器を乗り越えなければ一人前とは言えないのです。
八十歳を超えたホッターが恋の歌を歌った時のことです。その歌を選んでホッターに聞いてもらっている青年が歌い終わると「こんな風にも歌えるのですよ」と彼が歌い出しました。その時、私は鳥肌が立ちました。そして隣に座っている人の顔を思わず見てしまったのです。隣の人も私の方を向いていて一緒に無言でうなづいてしまいました。老いらくの恋とでもいうのか青年が歌う普通の恋の歌の何倍も色っぽいのです。恋歌を歌おうととらわれているのでしょう、それではまだまだ利き手には伝わらないものです。
若い歌はまだ形にとらわれています。ところが直感になるは自由自在です。八十を超えた老人の恋心を測る物差しなどないのです。
直感を測る物差しなどないのです。