七十歳で分かったこと
知識が増えることが楽しみだった時期がありました。自分の枠が膨らんでゆくのです。自分が大きく偉くなったような気分でした。
最近は何がなんでも知りたいとは思わなくなっています。新しい知識はそれなりに新鮮ですが、だからと言って知識が増えたという感覚は無くなってきています。今まで知っていたことを深めるための、料理で言えば香辛料のような感じがします。
七十になって、分かるという感触はどう変わったのかというと、ここに来て分かるというのがだんだんおぼつかないものに変わっています。かつてのどうしても分かりたいと言うガムシャラなところはなくなり、分からなくてもいいや、と言う感じです。消極的に見えまずが、引いているのではありません。もともと分かったと思ったのがただの思い込みなのではないかと、分かると言うことに幾ばくかの疑問をもっていましたから、それが強くなっただけなのかもしれません。こんなに分からないものに囲まれているんだと言ったら良いのかもしれません。
わたしがたくさん講演をしている頃、今から二十年から十年くらい前ですが、その頃は自分探しというのが流行っていました。多くの人が大真面目にこのテーマに取り組んでいましたから、流行りごとで片付けてはいけないのでしょうが、わたしは流行現象だと思って横目で見ていました。
もちろんわたしの講演会の主催者の方たちからそれに類したテーマを出されたこともありましたが、看板に偽り有りのような感じで、自分探しにはさらっと触れるだけ、別の話をしていました。
自分を探すのは、幸せを探すのに似ています。自分を見つけてどうするのかと言うのがわたしが抱いていた疑問です。
わたしは、人のために何かをすると言うことが、往々にして偽善のように見えます。だからわざわざ他人のためにというスタンスは取らないようにしています。
しかし幸せと言うのは不思議で、他人が幸せになるのは嬉しいのです。自分を幸せにしようとするのは苦手ですが、他人が幸せを感じているのをみるのは好きです。自分のなんでもない行為が人を幸せにすることがあるのです。ただわたしは幸せを押し付けてはいません。幸せは、あることわ幸せて感じる時にだけあるものだからです。
遺産相続で何億という額を受け取った人が、他の人との取り分と比べて不満を持って事件を起こしたことが報告されていました。実はよく聞く類の話なのです。信じ難いことですが、本当に不幸せなのだそうです。
幸せを外に見つけることはできないと言うことです。あることを幸せと感じるのかどうかでしかないのです。一万円の臨時収入に幸せを感じる人もいます。何億でも不幸な人もいます。あることを自分で幸せと感じるのかどうかでしかないわけです。
自分と言うものは、わたしの考えてばは、自分のために何かをしても満たされないものです。他人に色々してもらって嬉しがっていても、自分の中身は空っぽです。
ただわたしがしたことをある人が幸せと感じてくれた時、わたしは満たされます。ここの構造はとても繊細です。わたしはその人が幸せになるようなことをしたわけではないからです。わたしがした些細なことをその人が、全く主観的に、幸せと受け取ってくれただけなのです。
その瞬間、わたしを感じることがあります。自分と言う存在に触れることがありますが、またすぐに消えてしまいます。
七十歳なんてまだ青二歳です。