「知性」対「道徳」
普遍人間学の冒頭からして、シュタイナーの提唱する教育は知性のための教育ではない、知的人間を作ることではないと断言します。そうではなく道徳だ、霊性だというのです。
普通に教育のことを考えている人にとっては、ふざけてるとまでは行かないまでも、不自然な組み合わせではないかと想像します。知性と道徳、これはスイカと天ぷらのように一緒に食べてはいけないものの組み合わせです。
普通は優しさは性格を表すので、教育の対象ではないと考えられてしまいますが、道徳だって教育の対象になれるものなのかどうか疑問です。確かに道徳の時間なんていうのはあった気がしますが、とにかく不自然な時間だったことしか覚えていません。授業の話はみんなとってつけたようなことばかりだったからです。道徳というと畏まってしまうので、「優しさ」と置き換えてみます。教育で優しさが教えられるのかどうかです。
優しい人間になりましょうというスローガンで優しい人間が作れたら一番いいのでしょうが、それはできません。ところが、賢い人間は作れるのです。賢い子どもを勉強のできる子どもというふうにしてみると、やり方次第でしょうが、できます。頑張ればそれなりの成果はすぐに出ます。それを調べるのにテストという便利なものもあります。
でも優しさは出来ない相談です。どう頑張ったら優しい人間になれるのか、学者も、宗教家も、もちろん先生も、きっと知らないと思います。誰に聞いたらいいのかすら想像できません。ということは結構難しいことのようです。シュタイナーはそれをこれからの教育の課題だと言っているようなのです。
優しさは性格ではなく能力だと考えたらどうでしよう。わたしは素晴らしい能力だと思います。優しさは知性以上です。優しさの中に直感と霊力を感じるのです。
知性というのはとても魅力的なもののようですが、実はとんでもないものだということも知っておく必要があります。例えば嘘は頭のいい知性的な人の方が上手につきます。詐欺も、原子爆弾も実は知性の産物なのです。戦争も気が狂って起きたものではなく、正真正銘の知性から起ってしまったものなのです。となると知性を育てるなんてとんでもないものだと気がつきます。こんなものを教育で教える必要はどこにあるのでしょうか。
知性の正体は仮面です。辻褄を合わせるための仮面です。社会で生きてゆくために便利な仮面です。ところが、自分自身になるとき人間はその仮面を外します。そのとき人間はなんなのでしょう。
シュタイナーはそんなことを考えていたのかもしれません。
知性ではない道徳だという言葉はそんな響きを持っているように思えてなりません。