内面の世界
冬に向かう秋の朝はとてもさわやかです。天気の良い日の朝焼けは、真冬の深紅程ではないにしても寒さに向かう予感を感じさせる色に染まります。赤に染められた朝の空気の中で、紅葉を始めた木々の葉が鮮やかです。この様な光の饗宴は私たちを自然の中の一員だと感じさせてくれるものです。
それが、もし真っ暗だったらと想像してみると、生きていることが違うものになってしまいます。
私たちは光の中に生きていることの手ごたえを感じているのです。
一日を太陽のある昼、ない夜に分けます。
英語ではdayで、この言葉はギリシャ語のdia 、神という意味で、神を光の中に見たことに由来しています。それまでの、エジプト、メソポタミアの月の光の文化から、太陽の光の文化に変わり、光の中に神様を感じたのでしよう。
太陽の光の世界は外の世界、視覚の世界です。見えることに文化の重点が移りました。見える中に現実を捉えるのです。「百聞は一見にしかず」はそんなところからきているのかもしれません。
それまでは月の光の世界でした。夜の文化と言ってもいいかもしれません。現実を別のところに見ていました。聞こえる世界の中にです。現実を聞いたのです。
それはそのまま内面の世界、内側の世界にも通じるもものです。内面は聞いているのかもしれません。
でもこの内面の世界はまだ光のある外の世界を知らない時の内面です。
ギリシャの時代に光の世界が登場し、そこで哲学が栄え、今まで内面に押し込められていたものが外の世界との交わりの中で素晴らしい思考の世界を展開します。
考えると言うのは見える世界と聞こえる世界が補いあっていることの様な気がします。
日本語の考えるは「かみかえる(神様の許に帰る)」から来ています。感慨深いものがあります。
そして今、私は新しい時代が来ている様に感じるのです。
それをどういう風に言ったらいいのか迷いますが、一つの例として、光の世界と夜の世界が同じ重さで釣り合う様に見えます。見えている世界と聞こえる世界が合流します。
考えると言うことに別の役割が与えられている様に思います。
「きく」というのは聞く、効く、利く、聴く、訊くといろいろに書き分けられますが、基本は一つです。
内面に向かうと言うことです。内なる世界の働きを感じると言うことです。
こんな風に言うと最近のヒーリングブームの中では自己治癒力のことがすぐに浮かんでくることでしょう。
自己治癒力はスイッチが入らないと働きません。スイッチが入った結果です。スイッチは何か、それは内面に生きている自分に耳を澄ますこと、真正面から感じること、そして出会うことです。
昔の人間の方が自分の体のことをよく知っていたと言う人がいます。昔の方が自己治癒力が高かったと言う人もいます。きっと昔の方が内面を深く感じながら生きていたからだと思います。
今は外に向かった時代の名残がまだあります。治療も外からのものがほとんどです。
これからの治療は外からのものだけでなく、内面の治療が重視される様になって行くのだと思います。
内面に生きている自分との深い出会いのことを言っているのです。