一般人間学から普遍人間学へ
今までにも何度か告知してきていますが、このコロナ禍を利用して「一般人間学」を翻訳します。
この講演集は私的には「普遍人間学」と呼ばれるものだと思っています。一般的な人間像ではなく、普遍性のある人間像がシュタイナーが提示したかったものだと思うからです。
シュタイナー学校設立に当たって行われた二週間の会議の際、午前の二時間を、彼が考える人間像を教育との関連で講演したものです。すでに百年という時間が流れていることを考慮しなければならないわけですが、内容的には今日読んでも未だ斬新で示唆に富むものが多いのに驚かされます。中には今日でも未だ理解不可能というものすらあります。
自分の勉強のためにと、今までの自分を整理するためにという思いから翻訳することに引っ張られてゆきました。
実は、すでに優れた翻訳が二つありますから、今更もう一つ翻訳を加える必要などないのですが、翻訳に踏み切った理由の一つが、今までの翻訳は素晴らしいにもかかわらず読みやすいものではなかっことがあります。この点に留意して、流れのある文章に変えたら、多くの人がこの本からもっとインスピレーションを受け取れるに違いないと思い「翻訳してみよう」という気になったのです。知的に理解するよりもインスピレーションが大事だとシユタイナーはこの本の中でも繰り返しているので、それに従ったとも言えます。
この本の位置付けは、学校設立を意図しての講演です。しかもこの本にまとめられたことを出発点として学校運動に展開していっているので、「シュタイナー学校運動はここから始まった」という記念すべきものとして、原点に立ち返るという気持ちで読まれているシュタイナー関係者が多くいます。その意味で貴重な資料でもあると言えます。
私がこの講演集に深い思い入れがあるのは、初めの講演の冒頭でシユタイナーが「倫理的」という観点を持ち出しているからです。教育は知性の養成が目的ではない、「倫理」が語られない様では教育ではないと断言します。間違ないでいただきたいのは、知性なんかどうでも良いことだなんてことは言っていないことです。知性以上に大切なものが教育にはあるのだと言っているだけです。それと「倫理・モラル」の内容です。押し付ける倫理ではなく、子どもたちが倫理を悟るように導くことです。さらに付け加えると、「霊的世界へ関心を向けること」です。もちろん宇宙にもです。
しかしこれらを実際の教育の中で実化現するのは易しいことではありません。
実際には別の教育思想を背景にしたいくつかの教育実践が、興味深い結果を出して、新しい教育の姿を実現していたりしています。シュタイナー教育だけが斬新な教育をやっているのではないのです。子どもとしっかりと向き合う教育が、教師の人間性が命と考える教育が、いくつも生まれています。そこで子どもたちはのびのびと成長しています。子どもたちの成長がしっかりとサポートされているのが手にとるように感じられる教育です。
そんな中でシユタイナー教育の面白いところはどこかというと、教育、医療、農業、社会組織、宇宙論、人類史、歴史、哲学、芸術が、大きな一つの有機的組織体だという見方をしていることです。単純化しているのではなく、それらの底辺に流れているものには共通した物があることを示していることです。単に大風呂敷を広げているのとは全く違うものだと思います。人間はそれくらい複雑なのだと言うことかもしれません。同時に教育というのはそれに並行して難しいものなのです。
シユタイナー教育、シュタイナーの世界観は今日のスピリチュアルな流行の中で隔離されている感があります。シュタイナーは霊的な世界、宇宙的なことに触れていますが、それは今日のスピリチュアルのスタンスとはいささか違うもののような気がします。ツールとしてのものは似ていても、向かっている方向が違うのかもしれません。この点にはいずれゆっくりと触れたいと思っています。一つだけ例えれば、シュタイナーも瞑想のことをしきりに取り上げ推めています。今日では、瞑想はしっかりと文明社会に根を張ってしっかりと位置付けられています。サピエンス全史の著者ハラル氏の新作「レッスン21」も瞑想の重要性に触れています。
思考と瞑想の関わりもシュタイナーは独特の展開を見せます。思考を克服し、直感を磨くように仕向けます。克服ですから捨てる、放棄するのとは違います。思考する存在である人間にも愛情を持って接します。その上で克服を促し直感に誘うのです。
知識と先入観で語ることをやめ、直感的に人と人が出会えるようになれば、多くの力が集まってくるような気がしてならないのです。
過去と未来の捉え方、そこに人間として思考と意志が関わってきて、そこから教育の課題を導き出します。ただ単に知的に理解することはできないものばかりです。まさにそれだからこそ、瞑想によって培われる直感が必要になってくるのです。子どもたちも将来は知的な理解だけでは間に合わず、直感的な理解を必要とすることになるとシュタイナーは言いたげです。
なぜ教育にこんな話が必要なのかと思うのが今日の一般的な常識です。教育が社会の制度、社会システムのための道具になり切ってしまった社会を私たちは知っています。そこでは教育とは合理的なものでなければならなかったのです。合理的に、効率よく社会に役立つ人間を育てれば、それが良い教育だったのです。今日ではそこへの反省が顕著とはいえ、基本的には教育は社会に貢献するものと言う考えは継続しています。
シユタイナー教育の基礎的な考え方は、今の社会が求めるものに迎合するだけでは人間として不十分だと言いたげなのです。これは教育の将来に通じる長い道程だと言えます。今すぐ結論を急ぐと却って脱線しそうです。