一般人間学から普遍人間学へ その二
ある老人ホームに知り合いの婦人を訪ねた時、彼女は自分の人生を振り返りながら自分史を書いていました。
その自分史をお葬式の時に読むというのです。身の回りに起こったことを書くだけならまだしも、どうも自分で話を作っているように思えて仕方がなかったのですが、私が口を挟むべきことではなかったので、その夫人が書いているのをそばで見ていました。
お葬式の時、あの時書いていた自分史が読まれたのですが、私にはどのように聞いて良いのかがわかりませんでした。
サピエンス全史のユヴァル・ノア・ハラル氏はレッスン21で、自分の物語を作らないことという項目を掲げています。このことをテーマにしたのは彼が初めてではなく、彼以前にも、やはりユダヤ系の哲学者、マルティン・ブーバーが同じように自分の物語を作らないことと厳しく戒めています。彼は戦後のドイツで活躍した哲学者で「汝と我(Du and ich)」の著者で、その中でこのことを言っていました。
昔から物語にはどこかに嘘が潜んでいると思っていました。小説はもちろん、歴史という一見科学のような顔をしているものも、何年かすると嘘がバレてしまって、昨日までの史実が泡となって消えてしまうということすら起こりうるのです。英語で歴史は「history」ですが、そもそもは「his story」のことで為政者の都合で書かれた物語に過ぎないという意味です。学校で、神話は嘘で歴史は史実に基づいた科学だ、真実だと教わったような気がするのですが、最近は神話の方が本当ではないかなんて考えてしまうほど、歴史の中の嘘にうんざりしています。
なぜ人間は物語を好むのでしょうか。私は、居心地のいい場所作りたいからだと思っています。
自分で作る物語は過去を向いています。本当はもう変えられないことなのですが、そこに脚色を加えてしまうのです。過去の自分のことばかりで、しかも自分中心で、自分に関わったさまざまな人を今の時点からコメントします。自分の都合の良いようにです。こんな自分史をお葬式の時に読むのです。今でも私には信じられないのです。
森鴎外が晩年、自分の一生は、学び、仕事をすることで費やしてきたが、いま故郷を散歩して道端の花が綺麗だと思っても、その花の名前すら知らない。振り返るとなんという一生だったのか、というようなことを書いています。
人間は社会的な存在です。学問をし、立身出世も考えています。そんな中で人間関係に揉まれて生きてゆくわけですが、それは機能する人間を見た時の話で、人間という全体を見れば、人間にはももう一つの姿があります。森鴎外が晩年になって気づいた一面です。人間が自然とともにある存在だということは、誰に聞かなくても明らかなことなのに、それれについてはさほどの注意も払われないのが現代です。社会的人間と比べて自然は取るにたらないものなのでしょうか。そこに人間のおごりを感じます。
シュタイナーは、大人の社会の中で起こっていることを子どもの教育の場に持ち込むことを厳しく禁じています。大人の利害関係が人生だなんて教えているし社会があるのかと思うと情けなくなります。道端のかわいい花の名前がわからなかった森鴎外になんとなく人間味を感じるのです。自然、自然と環境問題を口にしている人たちの自然観はどういうものなのでしょうか。彼らの自然は思想としての自然なのでしょうか、それとも目の前にしている自然なのでしょうか。自然から自然の法則を見つける作業は、死んだ自然を相手にしているのだとシュタイナーは指摘していて、そうでない目で見て、鼻で匂いを嗅いで感じる自然から自然を学ぶべきだというのです。ドイツの森に入ってゆくと、そこで匂っているのは単純なものではなく、想像を絶するほど複雑な匂いがします。それを森の匂いなどと一括りにしてしまう人の無神経さには驚かさせられます。皮肉な言い方ですが非常に知能指数の高い複雑な匂いです。
自分の物語を作ってしまうと、過去の死んだ自分、過ぎ去った自分を整理しているだけです。しかも自分の都合の良いようにです。
人間は死にます。死というのは、そこから何かが始まる瞬間でもあると考えれば、済んでしまった自分だけをほじくり返しても、しっかり死ねないような気がしてならないのです。死んだら全ては終わりと考えるのはずいぶん身勝手な合理主義のようなものに感じるのです。