音楽の中の風景、シベリウスという作曲家

2021年12月31日

音楽と風景の結びつきについて、有名な逸話は、作曲家てあり指揮者でもあったグスタフ・マーラーの弟子が夏の休暇に遊ぶ先生のマーラーを訪ねた際の話です。駅に降り立った時に目の前に広がる風景があまりに素晴らしかったので、見惚れていると「この風景はみんな私の作曲の中で音楽になっているからそれを聞いて貰えばいいと、そそくさと迎えの車に乗せ山小屋の方に向かったということです。

昔からクラシックの音楽を聞いているとよく風景が出てきたものです。これは私だけのことではなく、音楽好きの友人たちと話している時によくテーマになったものでした。

却ってベートーヴェンの六番の交響曲、ニックネームが田園交響曲です、からは鳥の囀りとか、水のせせらぎを模した音が聞こえてはくるものの、風景らしいものは見えてきません。

音楽に聞こえるというのか、音楽の中に見えてくるというべきなのか、そこに出没する風景は私にはとても懐かしいものなのです。よく知っているのです。

 

最近発見した音楽家にフィンランドの作曲家シベリウスがいます。二十世紀初頭の人ですから、発見されたとは言えないのですが、今までは名前ぐらいしか知らなかった人の音楽を、最近になってようやく一生懸命聴いているのですから、やっぱり発見に近いものです。

昔はこの作曲家の音楽、特に交響曲はどのように聴いたら良いのかわかりませんでした。でからレコードもCDも持っていません。

何年か前の誕生日に友人が「シベリウスって聞いた事があるか」と言って交響曲の全集を持ってきたのです。「ヴァイオリン協奏曲、ピアノ小品集ぐらいはしつているよ」と答えると、友人は「交響曲がいいんだよ。聞き終わったら返してくれ」と押しつけるようにCDの全集を置いていったのです。それをつい最近取り出してどんなものかと聞き始めたのです。友人は私にシベリウスのCDを押し付けてきたことを忘れていました。さて聞き始めたものの初めは昔のようにどこに焦点を合わせたら良いのかわからずに聞いていたのです。ところがある時、他のことをやりながら、所謂ナガラ族的に聞いていると、ボワーと何とも言えない景色のようなものが目の前に広がっているのです。別の交響曲を聞いてもやっぱり風景が広がつているのです。「面白いなあ」と独り言を言いながらその日は三枚ほどいっぺん聞いてしまいました。三枚目あたりから、単なる風景ではなく、フィンランド人のシベリウスを取り巻いているフィンランドの自然を彼は音楽にしたんだとワクワクしてきました。

自然を描写するとかいうものではなく、自然の中にいるシベリウス自身の姿が見えてくるようなのです。私がその昔ノルウェーとスウェーデンを旅行した時のことを思い出すこともありました。北欧は中央ヨーロッパとは光が違います。とても栄養価の高い光だと思います。光が強過ぎて圧倒されてしまいます。その結果どうなるかというと北欧では思考が停止してしまいます。考えられないのです。

シベリウスの音楽が苦手だった頃は、音楽を思考するものとして聞いていたのだと思います。最近はそんな力みが抜けたのでしょうか、ぼんやりと聞く事ができるのです。そこに出てきたのがフィンランドの自然でした。とても透明な自然です。昔の中国の山水画のように人間は大自然の中にポツンと生きているのです。フィンランドは人間よりトナカイの方がたくさんいるとか、人間の数以上の湖があるとか言われるように、自然は人間を凌駕した力を持っています。

シベリウスが自然を作曲しようとしたのではないことが、彼の音楽を聞き応えのあるものにしています。作為的なものではない、自然に誘われるままに音楽が生まれたようなので、とてもリラックスして聴く事ができます。

この歳になって、こんな楽しい発見があるなんて、人生捨てたもんではないですね。

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