無明とmaya そして喜劇のこと
仏教でも教えの中に光が大事なものとして挙げられていています。ギリシャの光、キリスト教の光と、光が溢れくれば世の中明るくなって、冴え冴えとしてきそうな気がします。
無明というのは光が届かないところのことで、真っ暗ではないのでしょうが、まだぼんやりとしていて、ものの輪郭がつかめない状態です。そこに悪が宿るのでしょう。
こんな状態に自分でもよく居る様な気がします。
本当に光に照らされたようにくっきりと、冴え冴えと解っているものとは少し違います。そう言う時に出てきた言葉は同じ様にくっきりして、冴え冴えとして、人の心に辿り着いて、そこでしっかりと生き始めています。
人に伝わらない言葉は光が少ない様です。本人は気付いていなのかもしれないですが、もしかすると悪魔の様なものが居座っているのかもしれません。曖昧な輪郭で、人の心の中に入ってもぼんやりしているだけでいつしか消えてしまいます。
老子も知る人は語らずと言っていて、知らない人、ぼんやり解っている人ほど饒舌だと戒めています。勝手なことを言いますが、もし、知ると言う言葉が、白から来ているとすれば、世界は共通のことを言っていると言えるのですが・・。
ギリシャの哲学者ソクラテスは、相当の変わりものだったと思います。アイロニーというあまのじゃく的な言い方を好んでしていました。
「私は知っている、何をかと言うと、解っていないと言うことを」、という様な言い方ですが、彼にしても人が偉そうに言い張っている意見、考え英語のmean、ドイツ語の Meinungというのは先ほどの無明のことだと言っている様に思えます。
意見を交わし合うと言うのが西洋の伝統ですが、みんなが好き勝手ことを言いあうわけですから、そこには解答と言うのか真理という様なものを期待することはできないと言うことです。哲学というのは、そうしてみると真理の追求ではなくて、意見を言い合いながら、それがいかにくだらないところを堂々めぐりしているのかと知ることを目指しているのかもしれない、そんな風に感じるのですが、言い過ぎでしょうか。
でもソクラテスにとって意見、考え、思いつきなどはmayaだったのです。無明です。
ドイツの文豪ゲーテの「もっと光を」という言葉を読んで、「さすがにすごい」と思ったのですが、実は部屋が暗くて、高齢のために目が悪くなっていたので窓を開けてくれといったにすぎないと読んだ時にはがっかりしました。しかし、ゲーテもファウストという戯曲を読むと内面では光に憧れていた人です。最後は導かれて天に昇って行きます。
ダンテの残した壮大なドラマは日本語では神曲ですが、「神々しい喜劇」、「神様の喜劇」というのが本題です。かれは喜劇を書いたのです。ただドタバタの笑いを呼ぼうとしている喜劇ではなく、神々しい喜劇です。
どう解釈していいのやら、と考え始めるとそれこそ哲学の落とし穴に落ちてしまいそうですが、とりあえずは喜劇なんだと思って読んでいます。
「世の中が悲惨な時には喜劇が書かれなければならない」と考えていたのはドイツの詩人ノヴァーリスです。ドイツの宮沢賢治の様なところがあって、純粋過ぎて解りづらい所がある人ですが、その純粋さの中には透明感があり、彼はそこに喜劇を見ていたのでしょう。
さあみんなで喜劇を書きましょう。上等な喜劇をです。神々しい喜劇をです。光一杯の喜劇をです。