理解と直感
私というのはわからないものと相場が決まっている。
なぜだろう。
深刻に考えている横から声がする。
そういうものなのさ。
これで片付けては身もふたもないような気がするのです、もう一踏ん張りしてみたいと思います。
私というものに問題があるからわからないのか、私たちが普段から慣れ親しんでいる理解するというものに問題があるのかのどちらかだと見当をつけてみました。
まず私たちの理解するというものを見てみます。
理解するというのは、別の言葉で「わかる」と言います。わかるは分かるですから、分かるというのは二つに分かれたものが前提になっています。今、目の前にあるものを理解することを、分かるというのです。後ろにあるものや、上にあるものや横にあるものは理解の対象ではないということです。こうしてみると、英語でわかるというのが「I see」と言うのかが理解できます。見えるところにあるものだから理解できるのです。
自分というのがこの慣れ親しんだ理解からは理解されないことも少し見えてきました。
自分というのは目の前に置けないからです。私たちは自分というものの中に入っているので、自分が見えないのです。後ろのものや上のものや横のものが見えないようにです。
と言うことは自分というのを私たちの理解の対象にするためには、自分を二つに分ければいいということになります。しかし自分というのはハサミで切ったり斧で割ったり手でちぎったりと物理的にできるものではないので、二つにすることは容易ではありません。
誰か「自分分割法を発見してください」と叫びたくなります。それができるまでまで待つしかないようです。
もう一つは理解を、いわゆる「分かる」という二つに分けて、その一つを目の前に置くというテクニックを別のものにすれば、今のままの自分でも理解が可能になりそうです。
自分と一つのままで自分を理解するのです。
それが実際にはどんなことなのかしばらく考えさせてください。
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それはどこからも光がこない真っ暗闇の中にいるようなものなのでしょうか。
そうなると触覚だけが頼りになる感覚だと言えそうです。
そこで自分というのは触覚の感触の中に収められてしまいどこにも逃げ場がなも同然です。
もがこうと叫ぼうと救いの手はどこからもきません。
もちろん私たちが知っている理解は為すすべがないのです。
ここで生半可な瞑想やメディテーションをしようものなら、ますます自分を閉じ込めてしまいかねません。
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実は自分を自分の中に閉じ込めているのはエゴというもので、自分を自分として閉じ込めることで、自分という枠を作り他と区別しているのです。
エゴによって作られた自分という枠は人間社会で生きるにはとても便利なものです。エゴが強くなれば自己主柱が強くなるのはこの枠を強めるからです。
そうすると自分というものを理解するてがかりは、このエゴを取り除き枠を外すことになりそうです。そうして本来の自分に返すことです。
もちろんそれだけではまだ何も始まっていないのです。ただ今の私にはこれ以上話を進めるのは無理です。一つだけ手がかりになりそうなのは「直感」という、上からか後ろからか横からかわかりませんが見えない力で自分というものを支えている力に頼ることだけです。