褒めたり貶したりしない

2022年3月12日

個人的な経験からですが、人をやたらと褒める人は、同じくらい人の悪口も言っているような気がしてなりません。

人を褒める、貶すというのは、その人の心の浮き沈みの反映したものというより、もう少し深いところから来るものだと思うようになっています。

 

貶したり悪口を言うのは自分を上位に感じたいが故のものと言えるし、褒めるというのはどこかに下心を感じます。最悪はゴマスリですが。

それらは基本的にはエゴからの働きの現れの姿のように映ります。エゴが社会的産物と言われるのはそのように周囲との駆け引き、周囲から影響されるからなのでしょう。ドイツ語でInteresse、英語ではinterestingは興味深いとか、面白いという意味合いで使われるものですが、実はこの言葉もエゴ的なもので、利益という意味合いもある言葉です。自分の利益のために働くという時などに使います。周囲との駆け引きが関心事なんですね。私たちの関心事は儲かるか儲からないかということでもあるようです。

 

貶すという露骨なものではなくとも、私たちに染み付いている勧善懲悪というものの根源は、悪が主体になったもので、世の中に悪を見つけ出し、悪人を見つけ出し、それを懲らしめることで善が見えて来るというシステムです。自分が或ることをいいことだと思い込むことで、それ以外のものを悪に仕立てるということもあります。善と悪との関係は数学的に関数で示せないものなのでしょうか。

 

実は悪というのは、勧善懲悪のレベルより遥かに深い根っこを持っているもので、私たちが善を目指したり、善に取り囲まれていると、そこに必ず出現するものです。何人かでことを進めようとすると、必ず足をひっ張る人がいるというのもそういうものと似ているのかもしれません。社会に絶えることのない犯罪、戦争のような惨事、そうした悪の権化のようなものも実は善の潜在意識の深いところからの必然的な産物だと見ています。

私がいつも不快に思うのは、そうして出現した悪を「何の誰べい」と固有名詞を使って片づけることです。ジャーナリズムの安易なストーリーを作る悪癖のなせる技かもしれません。事実は小説とは違ってそう簡単には物語化されないものです。ジャーナリズムに数学的なセンスが欠けているというのが私の見解です。

褒めたり貶したりというのはつまるところこの情緒的な、感傷的な、センチメンタルな勧善懲悪と双子のようなもので、システム化されて社会で悪癖として機能し続けるのでしょうか。

 

褒めるという俗的なもの、利害から離れたところにある尊いと感じる心について述べてみたいのですが、この思いはほんの瞬間にしか心の中に現れないものです。色に例えればとても淡い色、音に例えればピアニッシモのようです。

尊いと思う気持ち、思える気持ちは大切にしてきました。とても静かな心の動きで、澄んでいて、そこにははっきりと為人(ひととなり)、人格が映し出されています。それだけでなく、その思いは周囲の人に伝播して、いい影響をもたらすのです。その気持ちの持ち主がいるだけでその場が清まり、物事がうまく片付くということもあるほどです。

ぜひ褒めると、尊く思うという二つを比べてみてください。

 

 

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