書くべきこと、書きたいことより書けることを
書かなければならないことなんか書けないものです。恐れ多いことです。
書きたいことを書けばいいのにと言われますが、そこに焦点を合わせるのは難しいです。
今の私には、書けることを精一杯、散漫に書くだけなんです。所詮できることしかできないのです。
ブログの文章を書き始めるときは、大まかな筋だてを立てて出港しますが、途中から違った流れが生まれるものです。そのときはその流れに沿って書くことになります。それが書きたいことなのかどうかと問われれば、正直わかりません、と答えます。書かされているという感じもあります。書くしかないので書いていることもあります。自動書記のように何かが乗り移って書かされているというようなことはありません。とりあえずは考えながら書いています。
講演も同じで、言えることしか言えないと初めから割り切ってやっていましたから、机の上で勉強した知識を並べ立てる講演は一度もしたことがありません。
もしかしたら千回以上した講演の基本はおんなじものだったのではないかと今振り返ると思います。
それでも主催者の方達、聞きにきてくださる方たちはいいとおっしゃってくださいました。それに甘えた訳ではありませんが、私にできることを、できるだけ丁寧に話にまとめたつもりです。もしかするとそれが故に、去年聞いた話にオーバーラップさせながら聞けたのかもしれません。
モーツァルトを聞くと、どんな曲でもモーツァルトだとわかります。ベートーヴェンも、バッハも、ヘンデルも、ショパンも然りです。数多いる作曲家はみんな然りです。
絵画でも同じことが言えるのではないかと思います。
もしかすると彼らもいつもおんなじものを作っていたのかもしれません。それしかできなかったのだと思います。間違っても個性的であろうとか、独創的なものを作ろうなんて思ってやっていなかったはずです。そんなふうに作っていたら、却って平均的で一般論的な音楽や絵がが歴史の中に並んでいるだけで、すぐに飽きられてしまうものだったに違いありません。
結果的に同じとは言っても、それはそれで特徴だといえば特徴ですし個性かもしれませんが、個性や独創性をはじめから狙ったものでないことは確かです。ある意味ではものづくりの人たちはいつも限界にいたのかもしれないと思います。自分にできることを、ギリギリのところで作っていたということです。
後世の人たちはそれらの作品を名曲だとか言うのでしょうが、それは媚びた商業主義です。名曲を書こうとした作曲家、名画を描こうとした画家は一人もいないというのが真実のように思います。
人間はみんな自分にできることをギリギリのところでやりながら生きているのだと思うのです。その生き方が、もしかすると後世の人から立派な生き方と評価されたりする事になるのかもしれません。