人間の顔
人間のパーツではなんと言っても顔が一番です。
その曲怖いのも顔です。
母の実家の居間にかかっていた母の女学生時代の肖像画が子どもの頃はとても怖くて、静止できませんでした。
成人して渋谷のスクランブルを歩いている時のことでした。とは言ってももう随分昔の話ですが、たくさんの人が私に向って歩いてくる時に、一人一人が「顔」を持っていることに感動したことがあります。後で思い出した時、人間に顔があるなんてあまりに当たり前すぎることなので、なぜその時にそんなことに感動したのかは自分にも説明できませんでした。
何にそんなに感動したのかというと、その顔の一つ一つが景色の様に映ってびっくりしたのです。それはほとんど一瞬の出来事だったのですが、人の顔が、たくさんの人の顔が、それぞれに風景だったのです。山があり谷があり草原がありといった風景画でよく見る様な景色でした。その時の美しさは今でも鮮明に思い出せます。
それ以来、人の顔に興味を持つ様になったのですが、いつも顔が景色に見えているわけではありません。ウィーンでのレンブラント展には自画像がたくさん出品されていました。レンブラントは自画像の数の多い画家ですから当然のでしょうが、絵に描かれている顔の存在感を初めて知りました。そしておかしな経験がその時にもありました。絵を見ている人たちの顔よりずっと絵の顔の方に存在感を感じたのです。
休暇でスイスにいた時のことです。日本風にいうと山奥にある村で夏祭りがあると聞いて出かけました。日本風に言うと山奥ですが、スイス風にいうと谷を深く入っていったところにある「文明から忘れ去られたような村」でした。スイスの秘境というほどではないですが、車で相当走るところにある村で、他に深く奥まっていて、タイムスリップを感じるほどでした。
そこで今までに見たことのない様な顔を見たのです。一人だけでなく何人かの顔がとても印象的でした。後で聞いた話なのですが、そこの人たちの中には、その村から一歩も出たことがない老人がいるということでした。深い谷の奥の村で生まれてから死ぬまでの一生を、そこだけで過ごす人がまだいるなんてことが、至る所に文明が浸透しているはずの現代にありうることが不思議でなりませんでした。しかし実際にそこでその人たちに会ったのです。
最近の日本ではノスタルジーを感じさせる、ちょっと古めかしい様な人を「昭和の匂いのする人」などと言いますが、そこで出会った顔時間をはるかに超えて「中世の香りが漂っている人」と言いたくなるほどで、彫りもしわも深い、遠い昔を感じさせる古い風景がその顔の中には在ったのです。じろじろ見つめてはいけないとは思いましたがしみじみと眺めてため息をついてしまいました。いつまでも見ていられるような味のある顔でした。文明の軌跡を感じさせない顔でした。私の様に観光できている周囲の人の顔を見ると、その顔がのっぺらぼうに見えるほどで、蓋種類の顔の強烈なコントラストは印象的でした。
一人の老人の顔を失礼を顧みずじっと見つめていました。その時微かな直感の兆しがあったのです。何が人間の顔をそれほどまでに魅力のあるものにしているのかの謎が一人の老人の顔を見ている時にわかった様な気がしたのです。嬉しい瞬間でした。
それはまさに直感というものでした。説明なく解るという直感特有の流れです。
私はその老人の顔をただただ眺めていたのです。他の人の顔と比べることをせず、その老人の顔だけに惹きつけられように、我を忘れて眺めていたのでした。見惚れていたとか夢中になっていたというよりは、その顔に抵抗することができないほど引き込まれていたのでした。その瞬間だけは時間も空間も消え去っていました。普段の思考は停止し、辻褄を合わせるように考えることなどできずにいました。
だからこそ老人の顔から人間の顔の秘密を解く答えが私に語りかけてきたのです。
顔はその人の全部が生きているというのが答えです。全部です。丸ごとです。前世すらもそこには映し出されていたと思いました。今生の経験の全てが顔を作っていたのです。顔というのがそういう表現の場であったことがかつてあったのです。四十になったら自分の顔をもてとはよく言われたものです。あの老人の顔は、ただ単に自分の顔というものではなく、そこにはその村の伝統すらも刻み込まれていた様でした。
現代人ののっぺらぼうな文明面に情けなくなる思いがしてなりませんでした。
なぜ人間は顔に何も表現できなくなってしまったのでしょうか。
もちろんそれと引き換えに何かを得たのでしょうが、私には失ったものの方が遥かに大きい様な気がしてなりませんでした。