発展するってどういうことか

2022年5月11日

私の若い頃は日本経済は成長の兆しを見せていて、64年の9月に新幹線こだまが開通、そして10月には東京オリンピックの開催。その勢いに乗ってついには70年代、80年代は大変な成長を見せてたのですが、92年のバブル崩壊以来日本経済は萎んでしまって、悪く言われ続けている過去三十年を経験します。

子どもの頃は世の中はどんどん良くなってゆくものだと思っていたようです。誰に教えられたわけではないのに、私の同世代は、多かれ少なかれ当時はそう信じていたと思います。技術的な面では、鉄腕アトムに象徴されるように、特に未来の予想図などを見てはワクワクしていたものです。

 

ところが最近になって、今までの発展の延長に将来があるのかどうかという思いが頭をよぎったのです。そのきっかけになったのはドイツの発展を意味するEntwicklungの意味を深く調べていた時のことです。

この言葉は二つの言葉をくっつけた、日本語的にいうと熟語です。初めのEntは「ほどく」という意味で、続くwicklungは「巻く」という意味になります。そもそもは「巻いたものをほどくこと」です。糸巻きに巻かれていた糸をほどいてゆくのをイメージされたらいいと思います。

私の脳裏を掠めたのは、「巻きほどける糸の長さ」でした。この長さはどの様に決まっているのか、ということでした。無限にあるものではないだろうし、そうなるといつか発展は終わりを告げるのだろうか。

 

それと並行して、最近世の中を駆け巡っている情報が大変な量になっていることにも不可解な気持ちでいたのです。この先提供される情報が増えたとして(実際に増え続けているということです)、どのような意味があるのかが想像できなくなっていたことです。もしかしたら今すでにある種の飽和状態になっているのではないのかと思ったりもしました。すでに美味しいものをお腹いっぱい食べたのに、テーブルにはまだまだ料理が運ばれてくる様な感じです。さっきまでの喜びは消えて、テーブルの上に運ばれてくる料理を見ても嬉しいどころか、吐き気を催してしまう様な感じでしょうか。

情報の飽和状態に関してもう一つ感じていることがあります。最近YouTubeを見ても、ワクワクすることがなくなってしまったのです。今の緊迫した世界情勢にしても、そこで実際に起こっていることを報道しようとする誠意を感じないのです。そこで見たり聞いたりしたことを材料として自分なりの考えをまとめ上げるという事ができないのは、とても残念です。精神衛生上全く不健康です。

見られるのはほとんどがコロンテーターの意見です。すでにある考えとしてまとめられたものですから、それは私が考えるための材料にはならないものなのです。人が咀嚼したものを食べさせられている様なものです。食べ物は、グルメ雑誌が教えてくれるものではなく、自分で発見したものが唯一美味しいものだからです。

誰かによって考えられたたことを聞いているので、何度か聞けば繰り返ししというと怒られるかもしれませんが、飽きてしまいます。よく似た考えが堂々巡りしているだけの様な気がするのです。報道が詰まらないだけでなく、報道されたことを手がかりにしても、世界の現実は見えてこないという、状況は如何ともし難いものの様に思うのです。YouTubeにはかつて別の機体が込められていた様に思うのですが。

今に始まったことではなく、ニュースというのはいつの世もこんな感じで、ねじ曲げられたのでしょう。グーテンベルグが印刷技術の分野で画期的な発明をし、それで聖書の大量印刷が可能になったとき「これでたくさんの人に聖書に書かれていることが広まり世界が良くなる」と喜んだのは束の間、よからぬことの方が聖書よりも先に広まってしまうという現実があったのです。

こうしてみるとネット世代の代名詞とも言えるYouTubeも今や終わりに近づいているのかもしれません。YouTubeに込められた期待が巻いた糸の長さは当初は無限大に見えたものですが、最近ではだんだん底をついて来て、残りわずかなのかもしれません。人間によって作り出された発展という期待は、やはりある種の妄想で、いつの日か底をついてしまうものなのだということなのかもしれません。

YouTubeが終わっても必ずやYouTubeの次なる発展の候補が現れる様な気がします。

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