遊ぶという漢字

2022年5月20日

「お遊びにいらしてください」と言って人を誘います。日本的発想で、外国の言葉に翻訳しても理解されない特殊な言い回しです。それどころかとんでもない誤解を招きかねない言い方でもあります。気心のあった人と一緒にお茶を飲んだり、雑談したりして楽しいひとときを過ごすことで遊びが成立するのです。

遊びというのは、いや日本風の遊びに関して言えばということですが、将棋や囲碁やピンポン、ダンスやゴルフという遊戯のようなことをするわけではなく、一緒にお茶を飲んで世間話をして時間を共有するだけのことなのです。

しかしこんな時間の使い方を現代はしなくなっているようで狐につままれたように感じている人もいるかもしれません。全然現実味のない話に聞こえるかもしれません。そもそも「遊びにいらしてください」なんて言われたことがない人がほとんどなのかもしれません。

しかし私には何か大切なことがこの非現実的な遊び空間にはある様に見えます。そんなの貴族趣味で悪趣味だと一蹴されるかもしれませんが、本当にそれだけでしょうか。

では逆に、現実主義者の人たちは遊びをどの様に考えているのでしょうか。「私は無趣味で仕事以外にすることはありません」と言って遊びを、無駄で、無意味なものと片付けてしまうのでしょうか。現実生活を直視すること以外のことは人生に必要がないと考えるのでしょうか。では何がその人たちの現実なのでしょう。彼らの目的に適ったものということであれば、なんとも世知辛い話です。

余談ですが、産業の世界で重宝されているシリンダーとピストンの話です。この二つがうまく機能するためには、ピストンがシリンダーとピッタリ同じ直径では摩擦熱が生じてしまいますから避けなければなりません。その間に隙間を作ります。ピストンが少しだけ小さいのが理想です。そうしてできた空間を「あそび」と言います。もちろんこの「あそび空間」が少なければ少ないほどピストン運動は性能が安定しますから、技術者たちの努力はそこに集中するわけですが、その「あそび」をなくすことだけはどんなに技術が進化してもできません。無駄な様に見えて実はなくてはならないのが隙間、遊びです。

ということは、遊び、無駄が精神面を支えているということで、遊び抜きには文化は考えられないのです。遊びは単なる贅沢な貴族趣味と言って片付けてしまえるほど上っ面なものではなく、そもそも精神性を内在したものだと言ってもいいわけです。

 

漢字に精通した白川静さんが一番好きな字は「遊」だと伺ったことがあります。子どもが神様と遊んでいる様を表したものなのだそうです。無心、無邪気さ、というイメージが浮かんできます。打算とか駆け引きのない世界です。

出雲大社の第三の鳥居、中の鳥居をくぐって大社の方に向かう道すがら、歩いていると参道の左右に芝の植えられた広い空間が目に入ります。Googleマップでもはっきり見えるほどです。そこはもちろん立入禁止区域ですが、七歳未満の子どもに限って遊んでいいことになっているのだそうです。そのことを出雲在住の方から伺ったときに、白川静さんが「遊」という字が好きですという言葉が脳裏を掠めました。神々と子どもとはまるで番のようだと思いました。

あそびを哲学しても、あそび論を展開しても、わたしたちが知りたい「遊び」には辿り着かないことは自分で実証済みです。言葉が空回りする感じです。宗教の世界でもよく似た様なことが起こっています。神学という学問があって神様について語り尽くすのですが、神学を突き詰めても神様に行き着くことはないのです。最近よく探されているのは「神様」よりも「自分」の方です。自分探しは一時期ずいぶん人気があって、私も講演で話す様に依頼されたことがありましたが、私にはどうしてもできないかったのでいつも丁重にお断りしました。持論ですが、「私」は探しても見つからないものです。先入観とか思い込みならば言葉にできますが、自分は「言挙げせず」が一番相応しい世界です。言葉に頼ると言葉が空回りしてしまいます。

神様も、自分も、遊びも理屈では見つ蹴られない様です。

 

 

遊びがなくなれば世の中、シリンダーとピストンの時のようになります。摩擦で熱が発生して、その熱で摩滅してしまいまますから望まれるのはなんとしても遊びの回復です。

社会の通念になった儲かる儲からないの価値観から解放されて、儲けにならない無駄な時間を過ごせるようなったらいいのだと思います。

このようにいうと、お金は大事ですという声が必ず聞こえてきます。お金なんか意味がないなんて言っていません、お金にならないことでもする価値のあるものはたくさんあると言いたいのです。それはお金の力を超えて遊び心が支えてくれている考え方です。

遊びはお金とは違う豊かな世界の住人だと思っています。

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