芸術の話し

2012年10月9日

 私たちは、ものを前にするとどうしても何かに役に立つかどうかということを考えてしまいます。そう言う次元でものを見ると芸術は商品になってしまいます。

 

ゴッホのひまわりの絵がいくらで売れたということはマスコミが騒ぎ新聞沙汰になりますが、あの絵の真価は何かといえば、商品価値だけではないはずです。

 

ただあまりに芸術を美化しすぎると、芸術のための芸術という狭い世界を堂々めぐりしてしまいます。ゴッホだって書いた絵に値段がついて売れたらいいと思っていたはずです。現実には弟が買った一枚だけが売れた絵ということで生涯を閉じます。

 

自分が描きたい絵を描いてそれが売れて生活ができ、更に人の幸せに貢献できれば一番いいのでしょうが、理想的すぎます。

人の評価に媚びても芸術的な冴えがないですが、思い込みだけでは成長がないのも事実です。評価されるというのは、他の人との出会いがあることで、人生が呼吸しているのですからとても大事なことなのです。

 

少し芸術を商品化しすぎましたから、今度は純粋に芸術の世界に浸りたいと思います。

今俳句に興味があり、いろいろと詠んでみました。自ら二度目に読んで「いい俳句!」だと思えるものはできません。今までのは、自分でいうのもおかしいですが全部駄作です。

 

これが俳句の怖いところです。すぐにできて、すぐにつまらなくなるので、今日でも読み継がれている俳句がどれほどのものかは、自分で一句をひねってみて改めて評価するに至りました。

 

芭蕉の透徹した言葉遣いには脱帽です。日本語の改革者、革命幼といえばそう言うことなのでしょうが、この人は日本語をこんなふうにしてしまったと思うほどです。本質は一を聞いて十を知る世界に通じるものです。

これほど説明のない世界もなく、芭蕉の句からは、人間の直観力を感じます。

 

二度読めない俳句は説明俳句です。そこには直観がないことはないのですが、せっかくの直観が説明で覆いつぶされてしまっています。

寺田寅彦がドイツ人は俳句が解らないという様な事を言っていますが、さもありなん、説明にこだわりのある人たちには俳句は駄目です。

 

俳句は芸術です。これは間違いのないことです。芸術は最後は褒め称えるもので、俳句もただ詠むのではなく、そこで詠んだ物を褒め称えることをしなければ、私日記の17文字版に過ぎないものです。

松のことは松に習え、というのは松の命を感じることで、松を研究することではないので、それを言葉にするのは至難の業ですが、芭蕉はそこをやり遂げてしまった様な気がしています。

 

絵を描くなら自分が色になるくらいでないと駄目でしょう。音楽は自分が音になるのが最良の道です。

 

今の時代、ズボンのポケットに手を入れて、外から偉そうにコメントするのが流行っていますが、一番芸術的でない姿です。洋服メーカーがズボンのポケットを作らないだけで相当芸術文化に貢献する様な気がするのですが、言い過ぎでしょうか。

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