俳句は理系かもしれない

2022年6月21日

今回の文章はまだ未完成だと感じながら公開しました。そうしないとこの文章のいいところが壊れてしまうからです。よろしくお付き合いください。

 

理系と文系と分けることを不思議に思う人はいないと思います。それくらい当然で、人間のタイプ、能力、適応性を理系・文系と分けるのはほとんど常識的なこととなっています。

橋下徹氏が大阪知事の時に、大阪の大学の文系の学科を縮小、あるいは全廃すると公言し物議を醸し出したことがありました。理系、工業系の大学だけが社会に意味のある存在だと言わんばかりで、文系は存続が危ぶまれ、おおあらわでした。小説家の藤本義一氏が直接知事と会って話をしたというニュースをテレビで見た覚えがあります。

ところが一方で生物学者の福島伸一さんが、そもそも生物学は理系に属するものなのに、自らを文系と位置付けてていらっしゃるのを知り狐につままれたような思いをしたことがあります。福島さん独特のバランス感覚のなせる技なのでしょうが、捉え方次第では、理系・文系の区別は流動的と考える方が理に適っているのかもしれません。

 

芸術の世界に目を転じると、そこには理系・文系と分ける習慣は見られません。それを超えているのか、それ以下なのかは読者の判断に任せます。

クラブ活動では運動系と文化系と分けますが、これも体を使うか頭を使うかと簡単に区別できるものではないようです。もちろんそこには理系・文系と分ける根拠はありません。また知能指数という測定技術からも理系・文系の決め手は見つけられません。

古代ギリシャでは「ロゴス」が包括していました。ロゴスには今日いうところの文系と理系の両方が含まれます。つまりロゴスというのは言葉と数学、論理性を併せ持っているものなのです。

今日的な意味で理系・文系を区別しようとするとき、この「言葉と数学」が手かがりになりそうな気がするのですが、古代ギリシャのあり方を見ると言葉と数学は基本的なところ、つまり根っこは同じとみなされていたで、理系・文系を分けるには相応しくないようです。当時は理系・文系と二つに分ける考え方は存在しま線でした。そもそも人間を総合的に捉えていたということなのかもしれません。

理系・文系というのは習慣的に分けていますが、よくよく考えるとそれほど当たり前のことではないことがわかります。

 

さて今日はとんでもないところに話を持ってゆこうと思います。

俳句というのは理系ではないかと考えたのです。

俳句は詩歌で、文学というジャンルに属していますから、普通は文系ということになると思います。

ところが生物学者の福島伸一の考え方の応用編として、さらに物理学者の寺田寅彦の書いた俳句論を思い浮かべながら、俳句は理系であると提唱してみたいのです。

俳句は今世界中から注目を集めています。このような言い方をすると、世界の俳句作りたちはあまり良い顔をしません。「日本人は外国の人に俳句はわからないだろうという先入観をお持ちなのでしょうが、私たちはもうすっかり俳句を理解し、自分のものと考えるほどです。そして日本人には作れない素晴らしい句をたくさん詠んでいます」と反論してきます。

俳句は世界に羽ばたいたのに、同じような和歌は日本というローカルな世界にとどまっています。十七文字と三十一文字ほどの違いしかないのに、しかも和歌にしても結構短い方なので、同じくらい日本を超えて世界に広がっても良いのではないかと思うのですが、和歌はローカル色豊かで日本にとどまり、世界はもっぱら俳句に注目しているのです。

俳句は十七文字から一つの世界を構築します。世界が注目するのは短さだけでなく、俳句という表現方法が宇宙へと広がる可能性を持っているからです。しかも、ここが大事なところなのですが、俳句には、言葉の壁を超えて挑戦できる何かがあるのです。俳句はそれによって世界中の人が取り組み始め、魅了してきました。私はそれが俳句が理系だからだと考えているのです。もっというと俳句は数学に限りなく近いものなのかもしれないということです。

十七文字では心の様子などを隈なく説明できるわけがないのです。そのためにはあまりに短すぎます。確かにこの点を強調するならば、西洋的な心理学好き、説明好きからは短いというのは短所として指摘されるだけです。ところがこの短所、見かけによらず強靭なのです。もし俳句が短いが故に未熟なものだったら、今、世界で注目を集めることなどなかったはずです。

俳句は短くても完璧なのです。俳句は描写し、説明するのではなく、感性的法則を直感的に提示します。

俳句は短い中で、簡略的に高い水準に到達します。それは情緒的表現にも通じるものですが、むしろ宇宙的表現にふさわしいものです。俳句は途轍もない能力を有しているということです。

どこからくるのかというと、日本語という音として使われる「シルべ言語」の持つ宇宙性です。西洋語の言葉は単語として意味を持ち、意味に翻弄され、概念とされます。この「単語言語」「説明言語」「概念言語」と比べると曖昧であることが強調される日本語ですが、本来は非常に直感に富んだ言語のはずです。ヨーロッパの論理的に「説明する言語」とは対極にある「説明を超えたもの」です。西洋の言語はこの仕事をポエジーの中ではなく、文法という理屈で捉え展開したのでした。

俳句の中に凝縮する美的センスは、音、シルべとしての言葉である日本語の凝縮したものです。日本語の中から雫として滴り落ちたものに、論理性、宇宙性を表現できる力が与えられたのです。もしかすると日本語は古代ギリシャのように、理系・文系の両方の能力を持っていたのかもしれません。そう考えると日本語という言語の持つ驚くべき直感的論理性、瞬時的理解から俳句が可能になったことがよくわかります。

俳句は合理性と曖昧性の融合です。日本が工業的に美的なセンスを凝縮しながら工業化を推し進められたのは、日本語が二つの能力を持っていたからだと考えてはどうでしょうか。ここには日本の過去の業績だけでく、世界の未来を感じるのです。

俳句は世界で愛されていますが、そもそもは日本語という特殊な能力、融合した能力からしか産まれ得なかったはずです。俳句に至るプロセスの中で、日本語が数学化したとも言えそうです。日本語という融合したものの中から産まれた奇跡、それが俳句なのかもしれません。

この奇跡、数学に支えられているが故えに世界がいま自分の言葉でも俳句を楽しめるのです。

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