芸術のもつ非日常性が大切
芸術という世界に触れる時には現実と非現実の世界を行き来している様な気がします。絵を見ても音楽を聞いても現実離れしています。無駄な世界、虚構の世界ですから、「もう少し現実を踏まえて生きなければ」という風にも言えるわけです。
なぜか突然小津安二郎の映画のことを書いてみたいと思いました。小津さんは「日常生活が映画にならなければならない」、ということを考えていた人です。
この言葉を初めて読んだ時、直観的には感じるところがあったのですが、謎めいているというのか、含蓄が深くて、どこにどういう風に焦点を合わせたらいいのかわからなかったことを思いだします。
映画というのはとどのつまり作り事で、日常生活が唯一の現実だということが頭にあったからでしょう。
しかし日常生活が必ずしも現実だ決めることはできないし、もしかするとそっちの方が錯覚で、映画という作り事の中から現実が見えて来ると言う方が正しいのではないか、そんなことに気付いた時から、逆に小津さんの言葉が心の中で響き始めたのです。
小津さんの映像はとても熟した映像です。些細な日常生活の一こまを描きながら、それが単なる日常生活の描写ではなく、それ以上のものになっているのです。私はそれを熟したといったのです。
何なのだろうと不思議でした。繰り返し見たからと言って解るものではないのは、音楽を聞いて「この音楽は何が言いたいのだろう、解らない」ということで繰り返しその箇所を聞いても解らないのと同じです。小津さんの映画も繰り返し見たからと言って見えて来るものはないようです。
勿論小津さんの映像に何も感じないという人もいます。その人と話しをしていた時のことを今思いだしています。その人は女性でした。
「あんなのは男の遊びだ」とか、「普通のことをあんな風に大袈裟にして」とか、「言葉が死んでいて不自然だ」と酷評するのではじめはびっくりしました。
でもその言葉がどこから来るのかはその人の生き方を見ていると納得できたのです。
自分勝手で、人のことをいつも批判していて、結局は自分に不満があって、それを人のせいにするタイプでした。
その人は自分を振り回しているものの中にどっぷりつかっていました。そこに気付いていなくて、そうして振り回されている日常生活が現実だという風に考えていました。話しをしているととても窮屈になるタイプの人でした。
日常生活が現実という迷信から抜け出していないということが解って、逆に小津さん理解の大きな手掛かりになりました。
自分の中の衝動的なもの、思い込みというのは見えないものです。それだけでなく、私たちはそれに相当振り回されています。そこのところに気付くことが大事です。ここに気が付いたらしめたものです。
しかし先ほどの女性ではないですが、振り回されているだけだと、振り回されていることを現実と感じ様です。
日常生活を振り回している衝動的なもの、思いこみというのは、視点を変えてみると、その人の人生を振り回している運命、カルマとよく似ているのかもしれません。
カルマという運命から一歩踏み出すというのは大変な努力が必要なものです。大変な修行が必要です。すぐに思いつくのは洗修行です。滝に打たれたり、断食をしたり、座禅をしたりということをする修行もありますが、私は別の方法もあると考える人間です。
芸術というのはその別方法のことです。
芸術には日常生活をから人間を引き離す力があるという風に考えているのです。
最近は芸術そのものがよく解らないものになっているかもしれません。そんな中で芸術を治療の道具にすることが流行っていますが、それはそれで評価をしてもいいと思います。
芸術には日常生活から人間を引き離す力があるからです。
病気というのは、日常生活に振り回されていることが現実に見えるところから生まれて来るものだからです。