挨拶しない人
挨拶をしない人がいるって信じられますか。したくないのか、できないのかはわかりませんが、挨拶をしない人に何度か出会っています。
挨拶のことを言い出すと話が広がりすぎて収集がつかなくなりそうなので、できるだけ話を絞るつもりです。挨拶というのは人間が精神と共のに生きていることの証でもあるからです。精神とは霊でもあり、もしかすると神でもあるからです。
挨拶の多彩さはいうまでもありませんし、思わず目を逸らしてしまうような濃厚な(特に日本人には)挨拶が世界に目を向けるとあるのです。
日本の挨拶はそうした世界水準に照らし合わせると風変わりなものに見えるようです。体が接触することなく、少し離れておじきするだけだと言ってしまえばそれまでのことなのですが、その何もないかのような空間に「礼節」というものが生きていることは日本人以外の人にはなかなか説明できないことです。
岡倉天心が彼の「茶の本」の中でものとものとの間にある「間(ま)」として取り上げ、茶空間で珍重されていることを指摘しています。
しかし礼節は日本だけのものというのは言い過ぎです。私は日本以外で生きてみて、どの挨拶にも礼節が備わっていると感じています。それどころか挨拶そのものが礼節だと言いたくなるほどです。挨拶は礼節から生まれたものなのです。
挨拶をしない人ですが、「しないのか」「できないのか」「したくないのか」はわかりませんが、人と会っても挨拶をしないのてすから、びっくりしてしまいます。ずっとその人を観察していたわけではないのですが、しばらく私がその人のそばにいて観察できた間だけですが、出会った人と一度も挨拶をしませんでした。私がその時肌で感じたのは「この人は人を無視しているか、さもなければ見下している」ということでした。そうした心の持ちようからは挨拶は生まれるはずがありません。挨拶をしない一人というのは実は家内の妹パートナーの女性です。義妹は同性結婚をしています。3条年ほど家族付き合い干しているので少しはその女性のことを知っているつもりです。彼女には他人とうまくやっていけないところがあります。いぜは性格的なものと判断していましたが、大方の人間関係がうまく作れないところを見ると、性格では片付けられないものを感じようになりました。そんな生き方ですから挨拶の必要性を感じていないのです。
実はもう一人挨拶のない人が身近にいたのです。姉の別れた旦那さんは、私と会っても挨拶をしませんでした。挨拶らしきものはあったかも知れませんが、誤魔化したような挨拶で、丁寧な挨拶はありませんでした。姉に言わせると私だけでなく、「誰とも挨拶をしないのよ。私の友達がみんな嫌がってるのよ」ということでした。色々と話を聞くと、子どもの頃から挨拶をする習慣はなかったようで、そもそも生まれつき挨拶のない人間だったようです。昔の義兄は生まれてすぐ、生みの親からお寺さんの入り口に捨てられていたのを、住職に拾われたという運命を持った人です。里親が見つかって引き取られそこでしっかりと育てられましたのですが、捨てられてひもじい思いをしていた時、昔の義兄が何を体験したのかはわかりませんが、人生、社会に対して屈折したものを感じていたに違いありません。「こいつのひねくれた根性は大人になってもかわらねぇんだから困ったもんだ」と里親になったお父さんはよく言っていました。
こうなると「挨拶をしない。その心は」と聞きたくなります。
私は挨拶をしない人と全く反対で、すれ違った人みんなに挨拶したくなります。よく一緒に歩いている人から「ご存知の方でしたか」と聞かれたものです。なんだかみんな知っている人に思えるのです。素直に、すれ違っただけでも出会えたことが嬉しいのです。
ということは挨拶のない人を「みんな知らない人だから挨拶をしない」というふうにも整理できそうです。見下すことも寂しいことですが、それ以上にみんな知らない人という感情はもっと寂しいことです。みんな知らない人なんて寂しすぎます。反対に「みんな知っている人」と思うのはおかしいのでしょうか。
シューベルトの「冬の旅」は一人の青年が旅の途中、五月のある日、ある村を通りかかったところから始まります。そこで色々なことがあって最後は冬の雪の降る中、その村を去ってゆくのですが、テーマは「赤の他人」です。
歌の出だしは、「赤の他人としてこの町に辿り着き、再び赤の他人としてこの街を去ってゆく」です。青年はその村人たちに受け入れてもらえなかったのです。いっときは親しそうに接してもらっても所詮「赤の他人」だったのです。
「みんな生まれた時は一人だ」という方もいます。「だからみんな孤独で」「死ぬ時も一人だ」というのです。確かにその通りで真実と言っていいのでしょうが、そこには何か大切な真実が欠けているように思えて仕方がないのです。人間は一人だけでは生きてゆけないものです。これも真実です
私はその真実が挨拶の中にあるように感じています。