褒めたり貶したり
悪口を言ったり貶しながら生きるよりも、何かにつけて褒めながら生きるほうが明るい人生が送れそうな気がします。
ところが先日ふと考えてみたのは、褒めるとは言っても案外勘違いしている向きがあるのではないかということでした。やたらになんでも簡単に褒める人は、同じくらいのレベルで貶したりしているのではないかという気がしたのです。
ポジティブ、ネガティブというのと結びつけてみたいのです。この二元論は何を基準にしているのだろうかというと、大基本はイエスとノーだろうという気がするのです。曖昧はダメではっきりイエスかノーというのが西洋的です。西洋ではグレーゾーンはご法度です。
しかし客観的なイエス・ノーなんてないのだということは考えておく必要があります。そうしないと全体主義のような画一的な文化が生まれてしまいます。ということで実は主観的なイエスとのーの基準に振り回されているだけなのです。
何かにつけてぶつぶつと文句ばかりを言っている人に時々出会いますが、こういう人とは一緒にいるだけで疲れるし、こちらの方の気も滅入ってしまいます。出来るだけそういう人と同席することは避けるようにしています。
一方なんでも「ポジティブに」と、物事を肯定的に見ていると信じ込んでいる人というのも、別の感触で一緒にいると疲れるものです。
一番いいのは簡単に褒めたり貶したりしないことで、まずは何も判断しないで放っておくことと言っていいかもしれません。関心がないわけではなく、逆にそのものとしっかり出会っていればいいのです。
なんでもすぐに判断できるというのは、判断力があるから出来ることと思われていますがそうではないのです。全く逆で、判断力が乏しいので、その場の雰囲気に飲み込まれて褒めたり貶したりして自分をコーテイングしているだけの場合があります。つまり実際には判断力が弱いということになります。私はそこに自我というものの側からきを感じています。
意外と思われるかもしれませんが判断力がある人は簡単に即断をしないものです。
ただある状況ですぐに判断を下さなければならない時には別です。その時は、直感という力で判断を下します。その直感ですが、思いつきとは次元の違うもので、判断力を鍛えた人が持つものだと私は考えています。雰囲気に呑まれた思いつきと、直感からの判断とは一味も二味も違い、直感は冴え冴えとしていて的確なものです。
小さな子どもを育てるときに「駄目」とか「いけません」と頭ごなしに言うことは避けるべだとは思いますが、あまりに神経質にならないことです。例えば「禁句」扱いして悪者にすると、却って神経質になってとんがってしまい窮屈になり不自然なものですから、子どもに向かって言うとき「あることをしては駄目です」と言う代わりに、別のことを示唆して、「これをしたらどう」と方向転換をしてはいかがでしょうか。
逆に子どもの前で「この花綺麗ね」とか「あの景色は最高だ」なんて簡単に褒めるのも、褒めすぎるのも子どもには迷惑なものだと思っています。先ほども言いましたが、褒めると言うのはそんなに褒めたものではないのです。特に小さな子どもの前では。
あるものを褒めるよりも、そのものを大切にしている姿を子どもに感じてもらう方が、子どもの人生に大きく働きかけているように思うのですが、どんなものでしょうか。