表情ではなく顔のこと
しばらく止められていた音楽界が最近また復活してきて、何度か足を運びました。コロナ禍の元でお休みしていたのは音楽だけでなく、美術館などもおんなじで、芸術全般の活動が停止した状態でしたから、潤いをもたらしてくれるものの復活を心から喜んで足を運びました。
でも満足のゆく音楽会には今の所出会えていません。
一番物足りなく感じているのは顔がないということです。音楽に顔がないのです。のっべらぼうとまでは言いませんが、見せ所聞かせどころをふんだんに盛り込んで表情付けのようなものはあって楽しませてくれるのですが、肝心の顔がないのです。面構えに満足できないのです。
現代人は顔を持たないということを示唆してくれたのは、シュタイナーの普遍人間学でした。当時、1910年代の話ですが、産業革命以降社会を覆い尽くしてしまった生産工場からででくる人たちの顔がみんな同じだとシュタイナーは言うのです。
個人的な体験をお話しすると、私がドイツの家族を連れて山形の温泉宿に泊まった時のことです。そこに東京の銀行の社員旅行の人たちが泊まっていて、その人たちと宿の廊下ですれ違った時に顔を見ると、なんだかみんな同じに見えたのです。子どもも「おじさんたちみんなおんなじ」と言っていました。最近の歌を歌う女の子のグループのメンバーの顔も同じに見えて仕方がないのです。Kポップは人気があるそうですが、彼らの顔も区別がつかないのです。みんな同じ顔をしているのです。
クラシック音楽の世界にまでこの傾向が波及していると思っています。
別の言葉で言えば平均化しているということかもしれません。クラシック音楽を演奏するのに必要なテクニックは小さい時から特訓されますから磨かれているのですが、それはただ音符を正確に弾く技術に過ぎないものですから音楽の本質ではないのです。
では音楽の本質は何かというと、「顔」です。面構えです。
顔のない音楽は派手に表情をつけても厚化粧のようなものですから、本質から離れていてすぐに飽きてしまいます。音楽らしくは聞こえますが、それ以上ではないのです。「らしく」なんていうのは基本的には媚です。顔と言っているのは全然「らしく」無いのです。
顔と言っているのは味かもしれません。いずれにしても、本当によかった、また聴いてみたいという気がしないのです。食べ物の味も同じです。また食べたいものには味に面構えがあります。
また会いたい人にもやはり面構えがあります。いい顔しているのです。決して今どきのイケメンではありません。
顔を繕っても、顔にはなりません。もちろん整形なんてもって他です。かえっていやらしいものになってしまいますから、グロテスクで醜いものです。顔は作れないのです。ところが昔から40になったら自分の顔を持てと言われていますから、作れるものなのかもしれません。
今は死ぬまで自分の顔を持たない人が多すぎるように思います。
。