独学の勧め
独学について考えてみました。うまくまとまらないのですが、公開します。
私が独学でやったものといえばギターです。テレビのギター教室を通しての見よう見まねはありましたが、先生について習ったことがないという意味では独学です。唯一の先生はコンサートでした。
ライアーも指使い程度の手解きを受けただけであとは一人で模索しましたから独学です。ライアーが長いこと好きになれなかったので、ゼミナールの時の人たちとの合奏などは避けていていました。紆余曲折があってやっとの思いで迷路から這い出したものです。自分が納得できる音がようやく出るようになってからは弾く時間が増え。楽しめる様になり少しは上達しました。ただ手本がないというのは強みであり弱みでもありますから、何度も挫折しそうになりました。しょうがありません。独学はここがネックです。持続できれば独学はかえって味のある習得法だと思うので、人には勧めるのですが、やはり持続がネックです。
独学は癖との戦いだという印象がありまずか、独学だけが癖と戦っているわけではないと思います。先生についていても、真面目に、しかもがむしゃらに練習をする人たちが悪い癖を練習で身につけることがあります。意外かもしれませんが結構多いのです。ということは癖というのは独学に付き纏っているだけでなくどこにでもついて回るものだということの様です。独学の場合は直してくれる人がいないので癖丸出しのものになりがちですが、先生についている場合でも頑固な人は先生が直そうとしても直らないほどの癖の塊だったりします。癖は浄化されて個性的と言われるほどのものにはなかなか到達しないものです。
なぜ独学のことを思ったのかというと、教育の中で独学はどのような位置づけにあるのかを整理したかったのです。私は今はまさに根本的に教育を考え直す時期にきていると思っています。というのは今日の教育は楽器のお稽古に行く様なお行儀のいいところがあって独創的な子どもを育てるとか、想像力を育成するとかいう立派な宣伝文句はあっても、広い目で見れば社会に役に立つ人材を作るのが目的だと思っています。ですから、効率が良く合理的なものになってしまって、そこに独学の様な学び方を導入する余地があるのかどうかということです。仮に導入するとなると途端に今までの教育のバランスが崩れそうな気がするのです。
独学は非合理的です。時間もかかり過ぎます。試行錯誤の連続で何をやっているのか側から見るとわからないわけです。側からは無駄ばかりが目立ちます。とてもじゃないですが、今日の教育の通念には当てはまらないものといえそうです。
独学に向くタイプとそうでないタイプがいると思います。独学に向きそうな人を見ると気骨のあるタイプで簡単に社会に順応するタイプの人ではなさそうです。今日のように昼は学校夜は塾と「教育」が満遍なく行き渡ってしまうと独学の居場所は見つけにくくなりますが、私はどんなに教育が社会に浸透しても独学という「秘密の空間」を奪い取ることはできないと思っています。独学は教育とはレベルが違う所にあるものだからです。ここが大きなポイントです。
教育は産業革命以降社会のために役立つ人間を育てることに翻弄してきたので教育で天才を育てることはできないでしょう。世の中の天才と呼ばれる人たちは、例え先生についたとしても、すぐに先生を超えてしまいますから、結局は独学の道しか残されていないのです。
それともう一つ大事なことは、独学には「ぼんやり考えること」が必要だということです。独学は束縛されずに夢見ながら進んでゆくものです。誰からも強制されないでいられる時間と空間が必要です。お節介な先生たちはそんな子どもを放っておくことはしないので独学系の子どもたちは学校へ行かなくなってしまうのかもしれません。
世界を引っ張ってきた人たちの多くは、独学の人たちの様です。先人たちの教えとは違った、前例のないことをする勇気と発想が求められているからです。もちろん温故知新も一つの真実でしょうが、誰も知らない境地を行くには独学に許される「ぼんやりと考えること」から生まれる奇想天外な発想が必要なのではないのでしょうか。
独学はお行儀の悪い学び方の様です。