バッハの音楽

2022年10月17日

バッハの音楽について書いてみます。

好きとか嫌いで片付けてはいけないくらいバッハは客観化されているように私には見えます。偉大がゆえに好き嫌いの対象であってはならないということです。

私は六十年くらい相当密に音楽と付き合っていますが一度もバッハの音楽のファンになったことはないと思います。一時的に興味を感じたりしたことはあっても、たの多くの音楽のように「私のそばにいる」という感触を感じたことはありませんし、一般的に評価されているように素晴らしい音楽だと感じたこともなく、いつも逆になぜ多くの人がバッハをこんなにも讃えるのかが不思議でならないのです。

ヨハン・セバスチン・バッハは近代音楽の父です。何を根拠にしてそう言うのかは知りませんが、同時代のヘンデルなどは過去を向いた音楽という評価をする人たちがいます。どうやらバッハは過去を向いてはいない様です。

世界中から最上級の尊敬を集めている音楽家ですが、作曲技法としてフーガ、対位法を巧みに組み立てた作品が高く評価されています。平均率クラビア曲集の中には複数の声部が絡み合うフーガがあるとピアニストの友人が、彼の恋人のことを話すように、いやそれ以上に親身になって話してくれました。そう言われても、私にはそれが音楽の美しさとどういう関係があるのかがわからないのです。

 

バッハの音楽は複雑に理屈を捏ね回しながら説明するのに適した音楽だと思っています。説明出来るから音楽が素晴らしいと考えるのは知性中心の現代社会の特徴だと思います。きっとそのあたりが近代音楽の父と位置付けられる原因の様ですが、それは落とし穴でもあります。

ドイツ人と話をしている時に感じる独特の癖をバッハの音楽を聴いている時にも感じます。そんな時「バッハは典型的なドイ人なんだ」と思います。ドイツ人のバッハ好きに聞くとこんな答えが返ってきます。「1番好きなのはバッハ、2番目はバッハ、3番、4番はいなくて5番目はやっぱりバッハ」。人と話しをする時心がけることがあります。相手がよくわかるようにわかりやすく話そうということですが、ドイツ人は逆で、特に相手が私のように日本人だと見ると、できるだけ話を難しくし、普段は使わない単語を並べ、特に本人もよくわかっていな外来語を織り交ぜながら話します。きっ本人も自分の言っていることがわかっていないのではないかと思えるほど複雑怪奇です。

バッハの音楽は自己陶酔的であり、自閉的です。ここら辺も現代という時代感覚にマッチし、近代音楽の父と呼ばれるものに通じるのではないかと思います。自閉的ということは、天才的に時代を先取りしていたのかもしれません。機械仕掛けで動く仕掛け人間の様です。計算された通りに動くわけですが、温かみのある動きは見られません。私の歌の先生は「ミシンをかけているみたいな音楽」とよくいっていました。

 

若い頃に音楽を求めてコンサートに通っている頃の話です。バッハの音楽会の時はいつも特殊な雰囲気を感じていました。類は友を呼ぶということなのでしょう、特に宗教曲で合唱付きのものの時にそれは顕著で、舞台の上の人たちも客席も洗脳されてしまったかのような特殊な雰囲気を醸し出しいつも驚かされました。宗教音楽だからだったのかもしれません。器楽曲の方はそれほどではありませんでしたが、足し算やら引き算やらの計算を飽きることなくしているようで、演奏されている音楽とはいつも距離を置いて、第三者の様な感じで聞いていた様です。心に染み込んでくるというものではなく退屈になり疲れてしまうのです。バッハのピアノ曲が続くと体が硬くなっていることがよくありました。その経験からだんだんバッハのコンサートからは足が遠のいて言ったのですが、ある雨が降る冬の寒い日に友人の家族に誘われてバッハのオルガンの作品を聞きに連れて行かれたことがありました。断れない事情がありお供したのですが、巨大な音が天井からこれでもかと言わんばかりに降ってきて、金縛りにあったようで辛かったことは今でも忘れません。バッハの音楽には人の心を麻痺されるような力がある様です。

ドイツでは私のようにバッハを感じている人は少ない様です。しかし歴史に残るチェロ奏家たちの中にバッハをほとんど弾かなかった人たちがいることも知っています。

 

私は何かにつけて天邪鬼です。ただ他の人と違うことを言ったりしようと無理をしているつもりはありません。天邪鬼が自然体なのです。人類がこぞってバッハを今のように称賛さんし、聞き入っている様子を見ると、心安らかになれないものを感じるのです。バッハの音楽は今でもずいぶん社会に浸透していますが社会的にもっと深く浸透する様になるとしたら、社会は今の社会とは違ったものになってしまうに違いないと。社会が何かに金縛りにならないことを願うだけです。

 

 

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