人生を軽くするセラピー、音楽そして宗教
まず好きなシューベルトの話から始めます。
私の印象ではシューベルトという作曲家はクラシック音楽の中で特殊だと思っています。これは私の個人的な印象だとは言えない、案外自明のことです。
若かった頃に音楽の集まりなどでは、「シューベルトが好きだ」とは言えなかったものです。「もっとチャンとした音楽を聞かなければダメだ」と仲間達から言われるのです。もちろん「どんな音楽がちゃんとした音楽ですか」と聞き返すのですが、返ってくる返事は決まって、「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン」の音楽ということでした。もちろん私は「それらのどこがちゃんとしているのですか」と聞き返しましたが、ちゃんとした返事はいただけませんでした。
私は未だにそのちゃんとしていないシューベルトが好きです。そして未だになぜシューベルトがちゃんとしていないのか、ちゃんと答えてもらっていないのです。
私が尊敬してやまないチェリスト、エマヌエル・フォイアマンはシューベルトのアルペジオーネソナタの素晴らしい録音を残しています。この作品は元々はアルペジオーネという楽器のために作られたものですが、その楽器が消滅してしまった後はもっぱらチェロで演奏されます。彼がベルリンの音楽大学の教授であった時の逸話がありますので紹介しますと、ある日、学生に「明日のコンサートではシューベルトのアルペジオーネソナタを演奏します」といったら、学生たちは不思議な顔をして、「先生はなんであんなつまらない曲を弾くですか」と不服そうに聞いてきたそうです。その時フォイアマンは「アルぺジオーネソナタはつまらない、退屈な音楽などではありません」とだけ言ったとそうです。
シューベルトがちゃんとしていない音楽家という評価は今に始まったことではない様です。
私はハイドンも同じくらい好きです。しかしこのハイドンも評価という点ではシューベルトと似たり寄ったりです。パパハイドンというあだ名は、お人好しのおっちゃん程度の意味ですから、ちゃんとした音楽家としては認められてはいないということです。
アルペジオーネソナタのことに戻ります。
この作品の不思議さは、一言で言えば「音楽による主張のなさ」だと思います。何かを誇らしげに主張することはなく淡々と、水が流れるようです。あるいは一筆書きかもしれません。滞ることがなくて、流れの中を無心に進んでゆきます。とてもしなやかな伸び伸びとした音楽です。このしなやかさはシューベルトの音楽に共通しているものですがアルペジオーネソナタではひときわこの特徴が秀いてでいます。しなやかさのほかにもう一つ特徴があります。私にはこの曲に「無重力」の様なものを感じるのです。
実はこの無邪気さ、無心さ、無重力というのがヨーロッパの伝統的なクラシック音楽では評価されない所なのです。重々しいこと、難しい顰めっ面をしていることという、シューベルトの音楽とは反対のことが評価の対象になっているのです。きっとそれが「ちゃんとした」という意味だと思っています。
深刻な顔をして、眉間に皺を寄せて聞く音楽がちゃんとした音楽というのは、人間が重たく、苦しくなってしまったということなのかもしれません。同種療法、ホメオパシーの原理です。ちゃんとした音楽が苦手な私の様な人間は、深刻に人生を考えていないと見られてみ仕方がないのかもしれません。
さて、私たちは何故音楽を聞くのかということを考えてみたいのです。ここが今日の本題です。
私は、音楽には重力というのか、重みを軽減する力があるからだと思っています。音楽というのはそもそも「軽み」を実現するためのものなのです。それぞれの音楽にそれぞれの軽みがあります。
音楽とはそもそも何かを軽くするものなのです。重っ苦しい人生を音楽は軽くします。鼻歌が出ている時の自分を観察すると、軽くなっています。鼻歌で軽くなっているのか、軽くなったので鼻歌が出たのかは、鶏と卵の様な関係で判然とはしませんが、お互いに強い結びつきのあるものです。
今日はセラピーというものが至る所に見られます。セラピーも人生を軽くするものと見てはどうでしょうか。私は占いもセラピーだと思っていますから、占ってもらった人たちは占い師の言葉で軽くなっているはずです。まだまだたくさん軽くするものがあるはずです。
人生を、患者さんを軽くするためには、真剣に取り組まなければダメで、中途半端で良い加減な姿勢では患者さんを軽くすることなんかできないのです。
宗教も人生を軽くしてくれるものなのです。宗教家の人たちには怒られるかもしれません。というのは宗教は「真実」を以って人間を「救っている」からです。しかしいくつもの宗教があるということはいくつもの真実があるので、実はややこしい問題なのです。が、宗教は宗派に囚われずにいうなら、いずれにしても人生を軽くしているのです。