生と死
生と死を二つに分けて考えるのが一般的です。
そうした中で最近は死が殊更にクローズアップされている様な気がしています。
生まれたら死ぬのです。死が拡大化されてホスピスにしろ安楽死にしろ死ぬことが殊更に強調されているので、かえって不自然な感じがしてなりません。死は極く自然な現象です。死なない人がいたらそちらの方がずっと不自然です。死は自然以上でも自然以下でもなく、極々自然なものなのです。私たちが生きているように自然なことなのです。
死をクローズアップするのは死後の世界が未解決なこともあります。死んだらどうなるのか、死後の世界はあるのだろうか、あるとしたらどんな世界なのだろうか。こうして死後の世界に伴う不安の材料を人々に押し付け、さらに誇大化し、そこから死の意味を捉えようとしているわけですが、そんなことをしても死の意味は見えてきません。逆に益々死から遠ざかっています。
生と死は一つのものです。ここが大事なところです。表裏一体という様なものではなく、とにかく一つなのです。生きているとは死んでいることであり、死んでいるというのは生きていることなのです。
私は三十五の時に余命宣告を受けて、初めて死と向き合いました。それまでにも何度か死に掛けてたのですが、そこから死を意識することはありませんでした。若すぎたからです。三十五という年齢は死を考え始めるのにとてもいい歳です。とにかく私はそこから死と共に生きていますからいつでも死ねるのです。死ぬ覚悟ができているというのとも違います。覚悟なんか必要ありません。なぜかというと、死は向こうからやってくるからです。生きているというのも同じです。
なんと言っていいのかわからないのですが、とにかく死ぬという手応えを常日頃から感じて生きています。死んだらどうなるなんて考えていません。私には死は今生きていることとおんなじだからです。今生きているように死ぬだけです。多分死んでも生きていると思います。