トルコ人、ファジル・サイのピアノ演奏
トルコのピアニスト、ファジル・サイのコンサートにゆきました。演目はバッハのゴールドベルク変奏曲でした。
前回彼の演奏を聞いたのがいつだったか思い出せないのですが、少なくとも十年以上前のことです。その時は燕尾服で登場し、正統派の演奏する音楽会でした。ところが今回は全てに渡って前回とは違っていました。まず出立が燕尾服ではなくラフな服装で、元気な青年のように舞台の上を足速に歩きピアノの前で聴衆に挨拶し椅子に座りすぐに演奏が始まりました。最初の音を聞きそびれそうになるくらい迅速な動きでした。
演奏スタイルはジャズピアニストを彷彿させます。何度も体を聴衆の方に向け、足の踵でタクトをとり、体を音楽に合わせるように動かし、手と腕は色々なジェスチャーを交え、恍惚と演奏していました。
会場には普段とは違ってトルコの人、トルコ系の人がずいぶんと来ていらっしゃっていて、彼の演奏を全身で堪能している様でしたが、ピアニストが居心地良さそうにしている音楽空間に入り込めず、しかもあまりに動きが激しく、作為的で音楽を邪魔していると感じている人も見受けられ、その人たちはアンコールを待たずに席を立ち会場を後にしていました。
彼はここ数年、今までの正統派のクラシックのピアニストという枠を外して演奏活動をしているようで自作のトルコの民族音楽の要素をふんだんに取り入れた作品も主要演目になっている様でした。今回のアンコールも異国情緒たっぷりのもので、中央アジアの弦楽器、あるいはインドのチタールとピアノが混ざった、ピアノの打楽器性が強調されたものでした。演奏が終わるとトルコの聴衆たちからの熱狂的な拍手とブラボーの叫び声で会場が渦を巻いていました。クラシック音楽のコンサートでは珍しい光景です。指笛が至る所から鳴り響き、最後はスタンディングオーベーションでお開きになりました。
私としては演奏に満足していたわけではありませんが、いろいろなこと考える機会を頂いて、その方でとても楽しめた音楽会でした。
まず頭に浮かんだのはパブロ・カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を引っ提げてヨーロッパで演奏した時のことです。カザルスはスペイン人です。日本からするとスペインも立派なヨーロッパですが、ピレネーを超えるとそこはヨーロッパ砂漠と言われ、文化的には半分アラビアからの影響下にある特殊なヨーロッパなのです。ですからカザルスの演奏するバッハに対しては「あれはバッハではない」と手厳しい批判の声があがったものでした。
トルコにしろスペインにしろヨーロッパには属さない文化なのです。スペインのフラメンコはヨーロッパというより遥かにアラビアに使いものです。
ではヨーロッパとはなんなのでしょうか。ヨーロッパの土壌とは。
この文章の中でヨーロッパという時は単に地理的に整理されただけではなく、文化を築き上げた場所としてのヨーロッパのことが言われています。
私はヨーロッパにいるのですが、実際にはドイツとスイスくらいしか住んだことがなく深くは知らないので、中央ヨーロッパ、とりわけドイツに限ってしかお話できません。
さてこのドイツですが理性をこよなく尊重します。ここでいう理性とは他でもない理屈です。もちろん屁理屈も含まれています。理屈の辻褄が合うことが何よりも大事です。ですから喧嘩、訴訟を例に取ると、喧嘩は弁護士を通してするものです。一家には必ずお抱え弁護士がいるものです。そうしないと他人と喧嘩ができないのです。大家さんと棚ごの間も手紙でやりとりしますし、その間には必ず弁護士がいます。これを理性と呼んでいいのかはわかりませんが、ドイ人は理性的に物事を処理していると考えています。
喧嘩がとても冷ややかです。熱血漢同士の殴り合いなんて知能の低い人間がやることと思っているに違いありません。感情に訴えるんなて野蛮なことなんです。大切なのは理性であり、客観であり、理詰めに解決することなのです。それが解決かどうかは疑問の余地がありますが、法律に従って解決したということが大事なのです。
この姿勢は、論議している時ばかりでなく音楽を聞く時にもたっぷり生きています。情緒的、主観的、感情を移入しすぎたりするも演奏は野蛮な演奏なのです。理性で処理されたものでなければと考えているのです。とても冷ややかです。感情を抑えた冷たい喧嘩です。音楽もどちらかというと冷ややかで客観的に解釈されたものが高級だと考えていると思います。カザルスのスペインを感じさせるものはヨーロッパは苦手なのです。今回のトルコのピアニストも、ドイツの伝統を重んじる正統派のクラシックファンには評判が悪かった様です。