「考える」は時代で変化する
今日、考えるというときには、具体的な対象と目的を必要としているはずです。
何方かが欠けてもうまくゆかないものとみなされもす。例えば、Aさんと仕事をすることになったがうまくゆくだろうか、という時には、対象は「Aさんとの共同作業」、目的は「成功の可能性」と言えます。考えたら結論が期待されています。考えるというのは具体的な結論が求められていることが多いのです。とは言っても必ずしも結論が見えてくるわけではないのです。そういう時は、わかりませんと言うしかないようです。もちろん不満の声が上がりそうですが、いつも結論を導きだれるわけではなく、そう考えると思考とはそもそも、未だ未完成なものだということなのです。
シュタイナーは興味深いことを言っています。神学という学問をめぐって、神様のことを研究している神学者たちがどんなに議論しても神様というものを彼らの思考から結論づけることはできないのだ、というのです。神様の存在は思考とは次元が違うのだ言っているような気がします。やはり思考とはまだまだ未完成のものなのでしょうか。
考えるというのは時代によって違うのだと表題で言っていますが、確かに時代を遡ると考えるということから別の景色が見えて来ます。これは少々驚きです。古いドイツ語では考えるという行為は目の前の具体的な対象を持たないことが多かったのです。どういうことかというと、過ぎ去った昔のことを思い出したりしていましたから、今で言う思考ではなく記憶だったようで、今のこと、特に将来のことを考えたりするのは、選ばれた特殊な人で、予見者、あるいは預言者とみなされ、極めて特殊な能力、存在に属していたのです。
一般にはぼんやりと、思い出の中を彷徨っていたともいえるわけでのんびりした雰囲気が漂っています。当時は人間の知性が今ほどではなかったからというのは、簡単すぎる知性依存主義の時代の誤った自分よがりな説明です。生きる拠り所としているもの、世界観が違っていたのです。
こうして見ると、これから先も考えるというのは今のままでいるというものではなく、この行為は変化してゆくと考えていいわけですから、今の私たちのように考えるだけが考えるだと考える人がいたらすぐに時代遅れになってしまいます。
シュタイナーの言葉の表現には含蓄があって、よく調べるととんでもないことをサラリと言っていることがあります。すでに何度か指摘していますが、そうした表現の中に「I c h d e n k e d i e R e d e」というのがあります。ここで使われているdenken、考えるは今風の考えるではないのです。今風だとIch denke an die Redeとなるからです。私はある語られたことに思いを馳せているという感じです。また昔のdenken、考えるであれば Ich denke der Redeとなりますから、過去の思い出に耽っているdenkenでもありません。非常に複雑で、たいていの翻訳が間違ったやくをしています。残るは一つ、未来です、何か未来に起こるそうなことに思いを馳せているのです。人間が言葉を使って将来語るようになる。そこで人間は違った景色の中にあるというのです。
将来的なdenkenからは予言が見えてきます。将来人間は預言者として時空を飛び越えるようになると言っているように思えるのです。予言は霊感に導かれない限りできるものではありません。単なる憶測ではなく、資料をかき集めた統計でもなく、確固たる真実として伝えなければならないのです。将来の人間は霊感に導かれた、霊感に満ちた存在なのでしょう。私はワクワクするのです。今は何とか直感を働かせて、一つ次元の上を、形而上の世界を見ようとしていますが、将来は霊感が備わり、そこに触れるものを語るようになるのだということかもしれません。
人間がそのように考えられるようになれば世界も変わってくるに違いありません。