教育ってなんですか

2023年1月15日

色々な教育があります。学校教育が一番知られていますが、英才教育、情操教育そして性教育などもよく耳にします。しかし教育と直接名を打たずとも、教育に準ずるものは、養成という言い方をとりながら他にいくらでもありますから、人間の教育への期待が大きいということなのでしょう。

教育に期待する人たちには、教育すれば人間は良くなるというのが根底にあるのかもしれません。教育が行き届けば世界は良くなると考える人がいたら、それはあまりに楽観的です。例えば、今戦争の背後で糸を操っている人たちのことを思うと、彼らはみんな高等教育を受けた優秀な人たちばかりのはずです。平和についても普通の人以上に知識のある人たちです。もし教育が成果を発揮するなららば、戦争など明日にでも収束できるはずです。ところが現実は違います。教育が隅々まで浸透しても社会は良くならないのは、人類みんながお巡りさんになったとしても社会が良くならないようなものです。教育は目先のことには役立っても、ヒューマニズム的な立場からすると全くといっていいほど無力なのです。

私たちが教育として認識しているのは産業革命以降の産物で、子どもたちを社会に適合できるように訓練するための機関として考案されたものと考えていいと思います。従ってそこでいう教育は人間として立派な人を作るのが目的では無いのです。そもそも教育というのは常に何かの、それも目先の目的のためになされるものなのだと知っておくべきです。

先日日本の性教育が遅れているという発言さをれている国会議員がいるのにびっくりしたので、そこに触れてみます。幅広いテーマなのでうまくまとめられないかもしれませんが付き合ってください。

そのかたは日本の性風俗のあり方、AV、援助交際などの現実を乱れていると評価して、そんなものが野放図され、氾濫している現実がある一方で、性教育は世界のレベルと比べてみるとずっと遅れているというのです。私が驚いたのは、その人がまるで世界の性教育の実態を把握しているような言いぶりだったことです。日本は性教育を見てもダメな国だと言いたいのでしょう。

世界の性教育の実態は、それほど明確に把握できるものではないと思います。民族の持つ習慣の間に差があるので、一律の性教育を押し付けるなどというのはかえって危険です。世界共通の性教育なんて世界を一つに纏めてしまおうとしているグローバリストの亜流です。ですから性教育の世界的基準などというのは馬鹿げた考えです。性に対して正しく教育された人たちは規則正しい性生活を送り、そこから正しい性の規律を持った社会になるとでも考えているのでしょうか。そもそも正しい性生活などいうものがあるのかも私には理解できないのです。

余談ですが、歴史をみるとお酒が禁止されたことが度々ありますが、それでアルコールによる弊害が撲滅したのかというと全く逆で、裏でお酒の売買が途方もない金額で取引されたり、酒がダメなら今度は麻薬に手を出すという流れになりました。禁酒令ではなく、今のように適当に高い税和かけてブレーキをかけておくのが良策と言えるかもしれません。ちなみに、ビールを外税にしたら反乱が起こるでしょう。税金を飲んでいるようなものですから、今の半分くらいの売り上げに下がること間違いありません。

 

性教育は何をしようとしているものなのでしょうか。今は性教諭という制度までできて、授業として認められています。ところが一方で男と女を区別しては差別と言われる社会です。人間という存在形態があるだけで、男とか女とかはそもそもないと言い張るわけです。そんなところに性教育は無用の長物に見えます。しかし現実話直視すれば、女の子には年齢になると初潮があり、男の子には夢精のような現象があるのは、考え方が変わっても現実ですから、そこに対応することは好ましいと私は思っています。そのために性教育があり、肉体的に備わっているものに性知識を与えるところまではあって然るべきものでしょう。ところが、恋愛を規制したり、性交渉を規制したりすることは性教育の範囲ではないと考えます。人類はつい最近まで性教育を受けずに存続してきたのです。それより、例えば中学生で出産したりした人をどのように理解してあげられるのかを指導することの方が、人間のメンタルな成長につながるものです。今はその子たちは犯罪人のように周囲から冷たく見られ強いだけられているのが現実です。性交渉への要求は人によって違うだけで、犯罪などではないのです。禁欲を強いることの方が罪深いように思います。

 

ドイツでは特別に性教育の時間というのはなく、男の子にはお父さんが、女の子にはお母さんが、どのようにしてお父さんとお母さんのところに君たちが生まれてきたのかを話すだけです。性の知識に目覚め、それをいやらしいことと見てふざけ半分で面白がっていた子が、自分がそのいやらしい中から生まれたと聞いて青ざめたという話はよく聞きます。自分の誕生は性を抜きにしてはあり得ないという現実に向き合えばいいのです。そこは避けるべきではないと思います。

性はいつの世の中でもお金で取引されたものです。どの港にも娼婦街があり、どの国の画家たちもお金に困るとポルノチックな絵を描いて生計を立てていたのです。性は人間の欲に纏わるものですから避けては通れません。食欲も同じで、裕福になると贅沢を極めた豪華なグルメの食事が氾濫します。食べることが生き延びることでも栄養の問題でもなく、贅沢な遊びに変わるのです。性も同じ欲として似たようなところがあるのではないかと思います。ただ子孫繁栄のためだけの性欲ではなく、贅沢を楽しむような悪戯な性が出現するのです。それをある人が間違っているといえば間違っているのかもしれません。しかしこの間違いの中を人類は生き延びてきたのです。正しいを主張するところにこそ間違いへの落とし穴がありそうです。

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